子供の誕生 ムスリムの一家に子供が生まれると、両親は、神への感謝と礼拝といくつかの儀式を行って、その子供の誕生を祝う。そのいくつかを以下に挙げる。   1)アザーンとイカーマを唱える 最初に行われる儀式は、新生児の耳に向って、アザーンとイカーマを唱えることである。赤ん坊が体をすっかり洗われてきれいになると、右の耳からアザーン、左の耳からはイカーマを唱えて聞かせる。両方とも赤ん坊の耳に向い、そっと囁きかけるように唱えられる。この儀式は、誰が執り行っても差し支えないが、通例、家族の中の年長者か、誰か他の敬虔な信者がこの儀式をするように頼まれる。 アザーンとは、ムスリムを義務的礼拝へ誘う、礼拝の呼び掛けであり、一方、イカーマは、礼拝がまさに始まろうとする時の知らせである。(金曜礼拝を参照のこと)この儀式の目的は、人間の生涯の最大の目的とは、万世の主であるアッラーを崇拝することであり、子供にも誕生の時から、その宗教的真実を悟らせるべきであると、ムスリムに対して強調することにある。現代の科学の進歩と、人間心理の研究により、赤ん坊には生まれる前から学ぶ能力があり、子供の潜在意識に植えつけられ、広範囲にわたり影響を与えるので、初期の印象は、大変重要であるという事実が確証されている。   2)最初の食べ物 最初に赤ん坊の口に入る食べ物や物質がたいへん重要であると考えられている。そこで、母親が赤ん坊に母乳を与え始める前に、敬虔な信者か、家族の中で最も年上の者が、赤ん坊にごく少量の食べ物を与えるよう頼まれる。もし、他に適当な人がいなければ、その子供の父親が、この儀式を執り行う。良く熟したナツメヤシの実、はちみつ、果汁等、赤ん坊に適した食べ物が用いられる。イスラーム教の聖なる預言者の妻たちに子供が生まれると、預言者自ら最初の食べ物を与えるのが常であった。預言者は、良く熟れたナツメヤシの実を、ごく少量口に入れて噛み、柔らかく液状にしてから赤ん坊に与えたのであった。  …

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家族というのは、人間社会の最も基本的な構成単位である。イスラームの教えによると、家族の土台は結婚によって築かれる。結婚は、当事者たちの公民としての契約と見なされる。イスラーム教では、牧師はいないので、結婚式は、イスラーム法を知る者であれば誰でも執り行うことができ、また、当事者たちに都合の良い場所で行うことができる。この儀式は、「ニカーフ」、すなわち、結婚の宣言と呼ばれている。この儀式は、普通、モスクにおいて、そこのイマームが執り行う。花嫁、花婿と彼らの両親、友人、親類などが、結婚式場に集まり、イマームが次のように唱える。 讃えあれ、アッラー!我らはアッラーを褒め讃える。我らはアッラーに救いを求め、庇護を希う。我らがお縋りし信ずるお方は他にはいない。我らの行いから災いや害悪が生ずることのないようにお守りくださらんことを。アッラーが正しき道にお導きくだされば、誤れる道に踏み迷うことはない。アッラーが道を誤った者と宣告なされば、もはやその者を正しき道へ引き戻すことはできない。アッラーの他に神はいないと証言しよう。アッラーは誰一絶対の存在であり、無比なるお方。ムハンマドがアッラーの下僕であり使徒であると証言しよう。 さあ、お前たちの主を屁護者とせよ。アッラーは、一人の人間からお前たちを創り出され、その身体の1部からお前たちの配偶者を創られた。そして、そのように男と女とを増やされていった。アッラーを畏れよ。お前たちが願い事をする時、その名を唱えるお方を。母なる子宮との関係を正しく保つよう心がけよ。まこと、アッラーはお前たちを見守っておられる。 さあ、信者たちよ!アッラーに対するお前たちの勤めを忘れてはならない。嘘偽りのないことを言うように。そうすれば、アッラーはお前たちの行いを正しくお導きくださり、罪をお許しくださるであろう。アッラーとその使徒に従う者は、まこと、大きな成功を遂げる。 さあ、信者たちよ!アッラーを畏れよ。あらゆる物事が次には何を生ずるか、よく気を付けるのだ。そしてアッラーを畏れよ!まこと、アッラーは、お前たちのすることを良くご存知でいらっしゃる。」 アラビア語で行われるこの説教は、このような結婚の儀式の時に、イスラーム教の聖なる預言者自身が行ったものと同じである。この説教に続き、イマームからの説話が行われることもあり、イスラーム教の結婚制度の尊厳と、妻や夫としての義務や責任等が説明される。説教の後、イマームは当事者たちの名を呼びあげ、結婚の成立を宣言する。イスラーム教における結婚は、1人の男と1人の女との間に結ばれる契約であり、その結婚に対しては、何らの法的制約もないので、花婿の同意と、花嫁と彼女の保護者との同意とが一番重要であると考えられている。そこで、イマームは、花嫁の保護者に対し、自分の娘、あるいは自分が後見人となっている娘と花婿との結婚に同意するかどうか、公の場で表明するように求める。保護者が同意を表明すると、イマームは、次に、花婿に対し、名を呼びあげた花嫁との結婚に合意するかどうか表明するように求める。花嫁の自由意志による同意は、普通、結婚の儀式の前に、直接、あるいは間接的に得られている。通例、結婚の契約書が花嫁と彼女の父親、あるいは後見人と花婿によって作成され、2人の証人がそれに署名する。式の前にあらかじめ取り決められていた婚資(夫から妻に贈られる贈与財産)も発表される。イマームの導く無言の祈りで式がすべて終わり、挨拶が交わされる。乾燥したナツメヤシの実等のお菓子が参列者に振舞われる。   花嫁の見送りの儀式 ニカーフの儀式が済むと、その男女は、法的には夫婦と認められるが、見送りの儀式を行うまでは、一緒に住まないのが普通である。花婿が彼の親類や友人と共に花嫁の家を訪れるか、あるいは、どこか別の適当な場所に集まる。そこには、花嫁の親類も全員集まり、二人の幸福を願う人々も、この祝いに参加する。出席者に軽食が用意されるのが普通である。花嫁の両親や二人の幸福を願う人々から贈り物の品々が二人に贈られ、二人が独立した生活を築き上げるのに役立てられる。無言の祈りを捧げ、花嫁と別れを告げる。花婿と彼の一行が花嫁の家を訪れることは、必ずしも必要とは決まっていない。時には、両親と親類に別れを告げた花嫁が、夫の家へ行って、彼と一緒になることもある。  …

Read More イスラーム法に基づいての結婚式

人間は、いつかは必ず死を迎える。しかしながら、イスラームの教えでは、死は人生の終焉ではなく、実際には、現世の行いがそのまま反映する来世が存在するのである。それゆえ、ムスリムは、自分たちの愛する者を失ったことを悲しくは思うが、その死を嘆いたりはしない。亡くなった人を思い、大声で泣き叫んだり、服を引き裂いたり、自らの身体を傷つけること等は、ムスリムたる者の悲しみの表現ではない。 ムスリムは、死の悲しい知らせを聞いた時には、次のように言う。   「インナー・リッラーヒ・ワ・インナー・イライヒ・ラジウーン」 「まこと、我らはアッラーのもの。まこと、我らはアッラーの許へ帰るのだ。」 親類や友人が、故人の家に集まり、残された家族の者を慰める。聖なる預言者は、死者を葬ることをむやみに遅らせてはならないと説いている。それゆえ、遺体は、きちんと洗われ、頭からつま先まで、縫い目の無い清潔な白い布ですっぽりと包まれ、棺架に乗せられて、(棺が使われることもある。)葬儀の礼拝が行われる場所へ運ばれて行く。遺体は、イマームの前に据えられ、他の礼拝の時と同様、葬儀の参列者は全員イマームの後ろに列になって立つ。列の数は奇数とするように決められている。この礼拝の際には、おじぎや座る姿勢、平伏する姿勢はとらない。イマームが両手を耳の後ろに当て、礼拝が始められ、「アッラーフ・アクバル」(アッラーこそ偉大なるお方)と大声で唱えながら、胸の前で両腕を組む。次にイマームと信者たちが、アル・ファティハ(開扉章)を無言で唱える。 慈悲深く、恵みあまねくアッラーの御名において。譛えあれ、アッラー、万世の主。仁慈あまねき、慈悲深き審判の日の支配者。我らはあなただけを崇拝し、あなたにだけ、救いを求める。我らを正しき道へとお導きくださらんことを。あなたの怒りを招く者、踏み誤った者の道ではなく、あなたが祝福をお与えになった者の道へ。アーメン。イマームが2度目の「アッラーフ・アクバを唱え、全員が次の聖句を無言で唱える。     おお、アッラーよ、ムハンマドとその信徒たちに祝福を与えられんことを。あなたがアブラハムとその信徒たちにお与えになったように。まこと、あなたは、称譛すべき高貴なるお方。…

Read More 葬式(イスラーム方式)

9.11のアメリカ同時多発テロ事件をはじめ、「イスラーム過激派」という言葉をよく耳にするようになりました。イスラームという言葉を聴いたとたんに頭に浮かんでくるのは、テロ・過激派・紛争などといった恐れを感じるようなことばかりです。 しかし、イスラームは過激な宗教でしょうか? それは、我々がまだイスラームの教えを知らないからです。イスラームという言葉の意味は「平和」です。イスラームは「…一人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。…」という教えっを持っています。この平和な教えを守るイスラム教徒はなぜ罪のない人を殺せるんでしょう。 自己利益のためにする行動をイスラームの教えだと決め付けている一部の人がいるおかげで、イスラーム全体が過激であると誤解されてしまう。 イスラームという言葉の由来はとても素晴らしいのです。“平和”という意味をもつ宗教は世界の宗教史のなかで、イスラームが初めてです。 イスラームを信じる人はムスリムと呼ばれムスリムの意味は平和な心をもって、社会に平和をもたらす者です。 聖なる預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)ムスリムという言葉の解釈を次のようにしている。 『ムスリムたる者は、自分の口(つまり言葉)、そして自分の手で誰に対しても平和と安全を与える人です。』(ブハリ) イスラームは平和を教えているのなら、何故世界からテロはなくならないのか? テロはイスラームの正しい教えとは全くかけ離れています。聖なる預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)の生涯を覗いてみると、テロや世界平和を壊すような教えを広めた例は一つもありません。また聖クルアーンは世界平和を推進しています。残念ながら、自己利益を目的にイスラームの名を使って戦乱を起こそうとしている一部の人たちがいます。しかし、彼らは正しいイスラームとは無関係です。人間性の敵であり、またイスラームの敵であります。…

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イスラームの教えに拠れば、動物の犠性は、他の多くの民族の場合とは異なり、神々の怒りをなだめる為でも、犯した罪を贖い、神々の歓心を買う為でもない。聖典クルアーンには、次のように明確に記されている。 「お前たちが捧げた犠性の肉も血も、神へは届かないのだ。神に届くのは、犠性を捧げることの根底にある高潔な心なのである。」 (22章37節) 言い換えれば、動物を屠ることは、一種の象徴的な表現なのであり、これによって、ムスリムは、全能の神の為ならば、自分の持っている物は何であれ、命でさえも喜んで捧げると宣言するのである。犠性として捧げられる動物は、実は、人間の心に潜む獣性を象徴しているのである。

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ハッジはイスラーム教の5本の信仰の柱の1つに数えられるものである。この時期、アラブのメッカに向けて、世界各地から巡礼者が詰め掛けてくる。巡礼が、政治や経済、宗教、文化上の争い等によって中止されない限り、人間の真の兄弟愛の最も素晴しい実例が世に示されることになる。ハッジは、ズルヒッジャ月の8日から13日までの期間に行われるが、これに関連して行われる主要な儀式は、次の通りである。   1)イフラームを身に着ける。 男性の巡礼者は、普段着は一切身に着けず、縫い目のない2枚の布で身体を披う。一枚の布を腰に巻きつけ、下腹部を披う。もう一枚は、右肩と頭が出るように、左肩にかけて、斜めに下げる。女性は簡素な衣服を身に着け、顔は披う必要はない。   2)カーバ神殿の周囲を7周する。 巡礼者は、大モスクに入ると、カーバ神殿の周囲を反時計回りに7周し、預言者アブラハム(彼に平安のあらんことを)が4千年前に唱えた言葉を唱える。その意味は次の通りである。 私はここにいます。わが主よ。 私はここにいます。私はここにいます。 あなたに並ぶ者はいない。…

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断食の規則とマナー 聖典クルアーンは次のように戒律を定めている。 これ、信者たちよ、断食はお前たちの先人たちに課せられてきたように、お前たちもまた、守らねばならない。断食を守るならきっと、災いから身を守ることができよう。(2章184節) 断食を行う者は、夜明けの光が差し始めた時から日没まで、飲み物、食べ物等は一切口にせず、煙草を吸うことさえ差し控えなければならない。これはラマダーン月の間、毎日続けられる。断食は、健康で成人したムスリムであれば、男女を問わず義務として課されているが、例外も認められている。病人、旅の途中にある者、妊婦、乳児を育てている婦人、高齢等の理由から体が衰弱している者等の断食の厳しさに堪えられない者は、この断食の義務を免れることができる。断食のできなかった理由が、病気等の一時的なものであれば、回復した後に、できなかった日数分だけ断食を行い、その分の埋め合せをすれば良い。断食できない理由が、老齢や漫性の病気等の長期にわたったり、永続的なものであれば、無条件に断食を免除される。しかしながら、その者たちも、経済的に余裕があれば、ラマダーン月の間、貧しい者に食料を届けたり、「FIDYA」として知られる寄附と同額の寄附を行わなければならない。 イスラーム暦は太陰暦なので、29日か30日間のラマダーン月は、年毎に11日早くやってくることになる。何年も経るうちに、ラマダーン月は異なる季節にやってくることになる。キリスト教徒が行う断食のレント(大斎節)が常に春に行われるのとは、この点で異っている。   断食の目的 断食は、身の清浄さを増す目的で行われる、肉体的、精神的、宗教的な鍛練と考えられている。聖なる預言者の教えでは、ラマダーン月は特に神を崇拝すべき月とされている。それゆえ、ラマダーン月の間飲食を断つことは、すべての思考を神への信仰のみに集中させる手段となるのである。 更に、断食は、裕福な者も、貧しい者も平等に、同じ条件で課せられるものである。富裕階級の者たちも、自分たちより恵まれない境遇にある同胞と、全く同じ方法で、飢えや渇きの苦痛を経験する。そうすると、彼らにも、飢えや困窮が単に言葉上のものではなくなり、身をもって経験する同胞たちとの共有体験となるのである。その結果、裕福な者たちも貧しい者たちの窮乏の状態に対し、更に同情を持って接することができるようになる。 断食は、また、多くの医学の専門家たちが認める通り、肥満や太り過ぎから生ずる様々な病気の治療として理想的な方法である。…

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イードとは、アラビア語で「何度も巡ってくる日」という意味である。イードの祭りは年2回ある。1つは、イードル・フィトルと呼ばれ、その10週間後に行われるのが、イードル・アドハの祭りである。 イードル・フィトル この祭りは、断食月が終わると祝われるので、断食明けの祭りとも呼ばれている。ラマダーン月の断食は、イスラーム教の5本の柱の1つに数えられるものである。断食は信仰の実践として求められているものであり、神への帰依を示す行為と見なされている。 イードル・アドハ イードル・フィトルの10週間後に、もう1つの重要な祭り、イードル・アドハが祝われる。この祭りは、「犠牲祭」とも呼ばれ、イスラーム暦の最後の月、ズルヒッジャ月の10日に行われる。この日は、ハッジの儀式、すなわち、カーバ神殿への巡礼が終わる日である。 イードの準備 断食月が終わり、新月が出ると、すべてのムスリムは喜びに胸をときめかせ、老いも若きも、最大の楽しみをもたらすイードの祭りを待ち受ける。夜を徹して、必要な物が準備される。その日は、商店も買物客の為に夜遅くまで営業する。イスラーム圏の国々では、町の目抜き通りや公共の建物等が夜にはイルミネーションで美しく飾られ、三角旗やまん幕も飾り付けされる。イードの当日、信者たちは朝早くから身体を洗い、晴れ着を身に着ける。子供たちも、この日の為に特別に新調してもらった服を着る。男女を問わず、香水をつける。このような祝い事の際に香水をつけることは、聖なる預言者の慣習(スンナ)であった。その朝食に甘い料理が出される。食事を終えると、広野などにあるイードの礼拝所へ急ごうと躍起になる。広野とは、普段は空地や公園として使われ、イードの礼拝の為に特別に空けてある場所である。 大勢のムスリムが一堂に会する為、イードの礼拝は、都市の中央モスク等の大きな集会所や、あるいは、野外で行われることになる。野外で行われる場合には、風雨を避ける為に大天幕が張り巡らされる。女性も特にイードの集合に出席するように求められているので、女性の為の囲いが設けられている。このように女性を分けているのは、イスラーム教では、男性と女性が自由に同席することが許されていないからである。 イスラーム教の聖なる預言者の慣わし通り、広野に出掛ける信者たちは、通例、往路とは別の道を通って家へ帰ることになっている。  …

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ムスリムの宗教栄の義務の中で、最も重要なものは礼拝、すなわち「サラート」である。礼拝は、男女を問わず、すべてのムスリムに義務づけられている。聖典クルアーンには、次のように記されている。 「定められた形式を守り、礼拝を行うのだ。礼拝は、決まった時間に行うことが信者の務めである。」(4章104節) 日課として行われる5回の礼拝は、次の通りである。 ファジュル…日の出前に行う。 ズフル…正午、太陽が一番高く昇った時に行う。 アスル…午後に行う。 マグリブ…日没直後に行う。 イシャー…晩に行う。 これらの義務的礼拝の他にも礼拝が行われることがある。例えば、ラマダーン月の間、夜遅い時間に行われる「タラウィーフ」と呼ばれる礼拝や、早朝に行われる「タハッジュド」と呼ばれる礼拝等がある。 それらの礼拝はすべて、可能であれば信者が集まって行うものとされている。金曜日の特別な正午の礼拝は、ゾフゥルの礼拝の代りに行われる。これがジュマの礼拝と呼ばれるものである。先に挙げたいくつかの礼拝とは異なり、ジュマの礼拝は必ず集合礼拝の形で行うべきものである。実際、ジュマの礼拝は、最も重要なイスラームの祭りと言える。…

Read More イスラームの聖なる日(金曜日)