イードの祭り

イードとは、アラビア語で「何度も巡ってくる日」という意味である。イードの祭りは年2回ある。1つは、イードル・フィトルと呼ばれ、その10週間後に行われるのが、イードル・アドハの祭りである。

イードル・フィトル

この祭りは、断食月が終わると祝われるので、断食明けの祭りとも呼ばれている。ラマダーン月の断食は、イスラーム教の5本の柱の1つに数えられるものである。断食は信仰の実践として求められているものであり、神への帰依を示す行為と見なされている。

イードル・アドハ

イードル・フィトルの10週間後に、もう1つの重要な祭り、イードル・アドハが祝われる。この祭りは、「犠牲祭」とも呼ばれ、イスラーム暦の最後の月、ズルヒッジャ月の10日に行われる。この日は、ハッジの儀式、すなわち、カーバ神殿への巡礼が終わる日である。

イードの準備

断食月が終わり、新月が出ると、すべてのムスリムは喜びに胸をときめかせ、老いも若きも、最大の楽しみをもたらすイードの祭りを待ち受ける。夜を徹して、必要な物が準備される。その日は、商店も買物客の為に夜遅くまで営業する。イスラーム圏の国々では、町の目抜き通りや公共の建物等が夜にはイルミネーションで美しく飾られ、三角旗やまん幕も飾り付けされる。イードの当日、信者たちは朝早くから身体を洗い、晴れ着を身に着ける。子供たちも、この日の為に特別に新調してもらった服を着る。男女を問わず、香水をつける。このような祝い事の際に香水をつけることは、聖なる預言者の慣習(スンナ)であった。その朝食に甘い料理が出される。食事を終えると、広野などにあるイードの礼拝所へ急ごうと躍起になる。広野とは、普段は空地や公園として使われ、イードの礼拝の為に特別に空けてある場所である。

大勢のムスリムが一堂に会する為、イードの礼拝は、都市の中央モスク等の大きな集会所や、あるいは、野外で行われることになる。野外で行われる場合には、風雨を避ける為に大天幕が張り巡らされる。女性も特にイードの集合に出席するように求められているので、女性の為の囲いが設けられている。このように女性を分けているのは、イスラーム教では、男性と女性が自由に同席することが許されていないからである。

イスラーム教の聖なる預言者の慣わし通り、広野に出掛ける信者たちは、通例、往路とは別の道を通って家へ帰ることになっている。

 

礼拝と祝典

イードの礼拝は、2ラクアから成る。礼拝の始まる時刻は、イードの数日前に発表される。午前中の、信者たちが集まるのに都合の良い時間が、協議の上で決められる。金曜礼拝と同様、イードの礼拝も集合礼拝の形で行われる。アザーンもイカーマも、この礼拝の際には行われない。指定の時間になると、礼拝者たちが、イマームの背後に列になって並び、カーバ神殿の方角を向く。イマームが声高に「アッラーフ・アクバル  」(「アラーこそ偉大なるお方」)と唱えて、礼拝が始まる。この聖句を唱えることを「タクビール」と呼ぶ。礼拝自体は、金曜礼拝と同様に進行するが、このタクビールが何度も唱えられる点だけが異なっている。イマームは何度も繰り返して、このタクビールを唱える。1度目のラクアでは、タクビールを7回唱え、2度目のラクアでは5回唱える。その後は、通常の礼拝と同様、イマームが祈りを導き、礼拝者たちは、イマームの動作に続いて祈りを棒げる。礼拝が終わると、イマームによって説教が行われる。この時の説教では、普通、この祭りの歴史的背景や、宗教的意義について話されるが、時には、何かムスリムにとって重要な問題が論じられることもある。礼拝がすべて終わると、信者たちは、互いに「イード・ムバラック」と言いながら、挨拶を交わし、抱きしめ合って喜ぶ。同胞たちに抱いていた敵意も反感もすべて忘れてしまう。イードの精神とは、平和と寛容、友愛の精神なのである。こうして、信者たちは幸福で満ち足りた気持ちになり、家へ戻る。家に帰ると、この祭りの為の特別な御馳走が用意されている。友人や親類を招いたり、贈り物や挨拶を交わし合ったりすることが一日中続く。近年、イードのカードを贈ることも、イスラーム世界の慣例となってきた。しかし、これに対しては、敬虔なムスリムから、そのような事に金を費やすことは浪費であるとの批判が出ており、この習慣を差し控える者もいる。彼らは、むしろ、その金を貧しい者や困窮者に対して施す方が望ましいと考える。子供たちも、このイードの日を楽しみに待っている。親類や年長者たちから、「イーディ」と呼ばれる贈り物や小遣いを貰うことができるからである。貧しい人々と食べ物を分け合い、困っている人々に救いの手を差し延べ、病気の者を見舞うことが、このイードの祭りに相応しい、称讃すべき行いである。

 

サダカ・トル・フィトル

このような祝い事や祭りの時には、ムスリムは特に、社会のより貧しい階級の人々に対する、自分たちの義務を思い起こす。「サダカ・トル・フィトル」すなわち、「フィトラナ」と呼ばれる、特別な寄附が、この目的の為に定められている。この寄附金は、家族全員を代表して、一家の家長が納める。貧しい人々も、イード当日の祝いに参加できるように、イードの礼拝が始まる前に、この寄附金を納めることが望ましいとされている。

 

祭りの根底にある教理

イスラーム教の戒律や命令はすべてイスラームの教えに基づいており、その根底には、基礎となっている教理が存在する。毎日モスクで行われる礼拝には、1つの地域に住む者たちが一堂に会するので、互いに知り合いになる。そうすると、近隣の者同士の結びつきが強まり、互いが必要としているものや、様々な要望を知ることができる。金曜礼拝では、この同情や愛、協同を育む友愛の輪が、町全体や都市の各区の住人全体にまで広がる。イードの祭りでは、その輪は更に大きく広がるのである。

その上、このイードを祝うことで、ラマダーン月の間守り続けた宗教的規律が、1年を通して継続すべきものであるということを真の信者たる者の心に、改めて植え付けることになる。

イードは、誰もが喜び、幸せを味わう時ではあるが、決して浮ついたお祭り騒ぎや、過食や歓楽の追求に耽る時ではない。祭りの主たる目的は、常に、全能の神を讚美し、自らの義務を滞いなく果せたことを神に感謝することによって、神に喜ばれる道を求めることにある。