イスラームにおける平和と国際関係

平和、希望、調和、善意そして兄弟愛の宗教であるイスラームが、近年見られるような様々なテロ行為や蛮行の加害者によって酷く傷つけられてきたことは遺憾である。

この問題を解決するために下記の3つの事項に注目したいと思う。

  1. イスラームにおける外交特権と戦争の倫理
  2. イスラームにおけるジハード
  3. イスラームにおける平和と国際関係

外交特権と戦争の倫理

イスラームの聖典聖クルアーンによると、神は肌の色、人種、国籍などに関係なく、全ての個人に栄誉を授けた。自由は神の素晴らしい恩恵の一つであり、それを欠くことはきわめて悲惨である。イスラームの神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはあり得ない。囚人は唯一、通常の宣戦布告された戦争や戦闘の場合に取られるのであり、他の理由のためや他の口実の下にではない。聖なる聖クルアーンは以下の様に明確に述べている。

正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。 (8:68)

この節は、過去の奴隷制度の慣習の根絶させるだけでなく、今日、実際の戦闘に関与していない無実の人々を人質にしたりハイジャックする偽りの正当化を覆している。

別れの説教でイスラームの聖なる預言者は、捕虜に与えるべき優れた扱いの指示を与えた。聖なる預言者は言った。

おお、人達よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。

 

戦争と捕虜の扱いの倫理に関する一層具体的な戒めが、聖クルアーンの第四十七章、第五節に含まれている。この多くの意味を含む詩は次のように言い換えることができる。

「通常の戦闘に従事したら、それは勇敢に執拗に戦うべきである。戦争は平和と良心の自由が確立されるまで続くこともあり得る。囚人は慎重に取るべきである。自由な人たちは、義にかなった合理的な理由無しに自由を奪われることはない。戦争が終わったら、囚人たちは恩恵の行為として、または身代金を払って受け戻すために、または相互交換を交渉して解放されるべきである。」

イスラームの歴史では、これら全ての方法が囚人の解放に用いられてきた。解放を得る一つの新しい方法は、教育を受けた囚人が身代金の代わりに、文盲の​​人たちに読み書きを教えることだった。

この詩はさらに、イスラームの名を騙りイスラーム教の旗の下に今日のテロを正当化しようとする者たちを根底から危うくしかねない。

外交使節は、イスラームの体制では特権階級に属する人々である。彼らは個人的特権を十分に享受している。彼らはその動機にいくら価値が有っても、政治的な身代金の対象にはならず、彼らを誘拐することは凶悪犯罪である。彼らは殺されたり、危害や虐待を受けてはならない。聖なる預言者の生涯には、これらの原則の適用を示す多くの実例がある。

従って、外交特権に関するイスラームの聖典の戒めとイスラーム教の聖なる預言者の教えには曖昧さがない。一言で言えば、どのような形であれ、外交使節や民間人を人質にしたり虐待することは、イスラームの教えや教義とは全く無縁である。言い換えれば、イスラームの哲学は完全にテロを拒否している。

イスラーム教におけるジハードの概念

一部の構成分子の行動を通じて、西側世界はジハード(聖戦)について間違った概念を具象化している。ジハードという言葉は、剣を振り回し異教徒を攻撃する、残忍なあごひげを生やし炎のような目をした宗教の狂信者たちが行進する光景を想起させる。

イスラーム用語のジハードは、高貴な方法で努力し、努め、懸命に試みることを意味する。何世紀にも渡って、このジハードの意味は消失したか、少なくとも希薄になっている。イスラーム世界における重大な転機に、ジハードの本当の初期の意味を復活させ取り戻す必要がある。

ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。

第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。聖クルアーンが語っているのは、先にイスラーム教徒を攻撃する者に対する戦闘のみであり、これはまさに聖なる聖クルアーンの他の詩にも規定されている条件である。イスラームの聖典のいわゆる剣の詩は、全ての不信心者たちに無差別の大虐殺を諄々と説き聞かせるかのように、何度も文脈から取り出される。あなたが見つけるものは何でも殺せ、のような聖クルアーンの言葉は、敵が先にイスラーム教徒を攻撃してきた場合にのみ適用され、その誓いや確約を破る不信心者たちや敵に対して用いられる。それらは、挑発に寄らない戦争や戦いには用いられない。それ以外の方法でこれらの詩を解釈すれば、イスラームの崇高な理想を戯画化することになるだろう。聖なる預言者の生涯において、剣あるいはイスラームの他に採り得る道を誰かに提供した例は一つも無い。

欧米のメディア及び一部の学者は時として、ジハードのこれらの2つの側面の間の相違を無視している。聖なる聖クルアーンは、信仰の問題に関してはジハード、聖戦を行わないことを忘れてはならない。聖なる預言者の言葉や伝統はそれを、常に不正確に戦闘的表現に陥りがちな激しい闘争の形で表現する。現代のテロは、イスラームにおけるジハードの真の精神の領域とは相いれない。

イスラームを、神の権威を装って不当な人的、物的な苦しみや破壊を引き起こす権利を自らに与える未熟で原始的な宗教と示しても、それは我々が聖なる聖クルアーンと聖なる預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)の教えに見出すイスラームではない(平安とアッラーのご加護を!)。

イスラームにおける平和と国際関係

神の属性の中で、聖なる聖クルアーンは、神は平和の根源であり安全を与える者である(59:23)と言及している。従って、平和の確立と安全の維持は、全てのイスラーム教徒にも非イスラーム教徒にも等しく不変の目的でなければならない。平和を乱す全ての営みと活動はイスラーム教では厳しく非難されている。聖なる聖クルアーンには特定の禁止命令が見出せる。
そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない…. (7:57; 11:86; 29:37)                  危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラーム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。

イスラームは、平和と秩序を乱したり破壊しがちな要因に注意を喚起し、それらを非難する。 国内の領域での別の集団による一集団の支配、または国際的領域での別の民族による一民族の支配は、平和を妨げる重要な原因であるので強く非難される。別の民族または国による一民族または一国の経済的搾取は、必然的に搾取による支配につながり、平和に対する潜在的脅威に発展する。聖なる聖クルアーンはそのような搾取を禁止しているので、搾取に基づく経済は結果的に有益では有り得ず、耐えることもできない。

イスラームは、平和、良心の自由、そして人間の福祉の増進の追求において緊密に結びついた、強固かつ安定した国家のつながりを具象化する。国家間の条約や条項は簡単な言語で行われ、何らかの優位性を確保したい誘惑によって回避または拒否されることなく作成される必要があり得る。困難や紛争の場合に、平和的な解決や調整をもたらすのはイスラーム教徒の義務である。

聖なる聖クルアーンは、神が全ての人々に啓示を時々、送っていると教えている。旧約聖書の預言者たちの多くが名を挙げられ、同様にイエスも他の預言者と共に、全てのイスラーム教徒から大いに尊敬され崇拝されている。確かに、聖クルアーンはこれら全ての預言者たちに真の信仰を求めている。イスラームはこのように、全ての預言者がどこに現れても証言を求めるという点で唯一かつ独特のものであり、故にイスラームは、様々な宗教の信者の間に和解をもたらして彼らの間に尊敬と名誉の礎を確立しようと試みる。聖クルアーンは次の様に言う。

げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。

(2:63) 。

同じ託宣が5:70で繰り返されている。全ての宗教の信者の基本的結束が聖なる聖クルアーンで力強く強調され、テロによる不和や分裂が生じることが有ろうと無かろうと、イスラームに入り込む余地は全くない。

国際関係の分野では、宗教及び宗教間の関係が重要な位置を占めている。残念なことに、人間関係のこの側面にはあまり注意が払われない。宗教は各個人にとって私的な問題であり、従って生活の政治的、社会的側面とは直接の関係がないと思われている。この仮定は正当化されない。イスラームは平等主義的な宗教であり、単なる個人的な信仰ではなく、価値観や行動の包括的な掟である。イスラームは人間関係における重要な要因であり、今後もそうであろうし、その目標を達成するために宗教的、政治的指導者側に必要とされ続けるのではなく、団結と調和を促進するのに、次第に一層の効果があると期待する十分な根拠がある。

平和であろうと戦争であろうと、テロ行為はイスラームで非難されるだけでなく、全人類の主である神の意志への服従を通して実際に平和を象徴するイスラームの教えに相いれないと明白に宣言されていることも述べて、私は結論を下す必要がある。神の律法への服従によってのみ、私たちはテロの無い安全な世界という理想の達成を希望することができるのである。