イスラームの特色

イスラーム教の特色と題して語られる時、人を第一にそして最も魅きつける点というのは、イスラーム教が排他的でなくそれ故魅力的だということにある。イスラーム教だけが真理を独占するとか、他にはどんな真の宗教も存在しないとか、そのような主張をしないことにある。また、アラブ人だけが神の愛を受けてきたということもない。真理というものが、単一の宗教や人種により独占されるという考え方を完全に否定するのはイスラーム教だけである。そうではなく、神の導きはすべての時代にわたって人間性を支えてきた普遍的な博愛に他ならないことを、イスラーム教は明言している。聖典クルアーンは神の導きの恵みにあづからなかったどんな民族も国民もなく、また預言者や神の使者を神がつかわされたことのない地域や団体はこの地上にはない。と語っている。(注1)地上の全ての人々に示されたアッラーの恩寵についての、この世界中に知られたイスラーム的考え方に反して、逆に他の宗教のどの教典も、他民族や他国の人々が歴史のどの段階においてもアッラーの光と導きを受けたことは、確証をもたず、言及さえしていないことの方が我々にとっては驚きなのである。実際、或る限られた地域の中の宗教の真理と正当性が、誇大に強調され、他の宗教の持つ真理は全く無視されるというのはしばしばみられたことである。あたかも神が地上の他の全ての住人を除外して、ただ一つの信仰、一つの国民、一つの部族にのみ、保護を与えられたかのように、まるで真理という太陽は、言うなれば、他の世界を永久の暗闇の中に棄て去り、呪われたもののように取り残しながら、ある限られた人々の地平にだけ昇りかつ

聖クルアーン35章35節

沈むといわんばかりであった。例えば聖書は、神はただイスラエルの民だけの神と説き、何度も云っている。「主に讃えあれ、イスラエルの神に。」と。

聖書は、他の国々や人々に与えられた宗教的な啓示の中にある真理というものについては、一時的なものでさえ、考慮し照合するようなことはない。このように全てのイスラエル人預言者はイスラエルの民にだけつかわされたのだ、というユダヤ人の信念は、聖書の意図と教えを忠実に遵奉していることによる。イエスもまた、彼の到来はヘブライの民だけを導くためのものであったと明言し、次のように述べている。「私は、イスラエルの家の迷える羊にだけつかわされた。」と。

彼は弟子達を諭しこう云った。「聖なるものを犬にはやるな。あなたがたの真珠を豚に投げてやってはならない。」と。

同様に、ヒンズー教は高い身分の生まれのものにだけ、その教典は与えられる。

「もしも卑しい生まれの人間が偶然ヴェーダの経典を耳にすることがあれば、王は、その耳を溶けたろうや鉛でふさぐべきである。またもし彼が聖典の一部でも朗読することがあれば、その舌は切り取られるべきである。彼がなおもヴェーダを読み続けるのなら、彼の身体は切り刻まれるべきだ。」と。

もし我々がこの激しい調子の命令を無視したとしても、あるいは幾分調子をやわらげた説明を加えたとしても、いろいろな宗教の教典のどれも、自分達以外の土地や人々の持つ宗教の真理をそれとなくほのめかすことさえないという事実は残ったままである。ここに生じる基本的な疑問は、もしこれら全ての宗教が事実真理であるとしたら、このように制限や提示付きの言葉で神の考えを表わそうと

旧約聖書サムエル記、25章32節

新約聖書マタイ伝、15章24節

新約聖書マタイ伝、7章6節

ゴータマ・サムリット12

する知恵とは一体どのようなものであろうか、というものである。聖クルアーンはこの難問に解答を与える用意がある。その説とは、クルアーンの啓示が示され聖なる預言者ムハンマドが出現する以前においても、神の使者はこの地上の全ての国、全ての地域につかわされていたのだが、彼らが送られたのは限られた地域でその使命も一時的なものであった。というものだ。その訳は、地球に普遍の神の教えをもたらす神の使者を任命するというには、人類の文化が未発達でまだまだその段階に到達していなかったからである。