正義に関するイスラームの考え方

私は今ここで今日の世界でおそらく強調する必要のあるイスラームの原則のうち、重要ないくつかの例をあげてみたい。そのまず第一は、公平と正義についてのイスラームの教えに関するものである。他の宗教は正義と公明さを施行する上で判り易い指図は何も与えはしていないし、よしんばそれを語るものがあったとしても、今日の我々に殆んど適応するような風には書かれていない。実際これらの指図のいくつかは、我々の時代の知性や感性には真向から対立するようにみえ、これらの教えは信用できないものになったが、単に限られた一部地域か一時期に適応するように与えられたものでしかないと結論せざるを得ない。ユダヤ教は、神を人類の他の全てを排して、イスラエルだけの神であるとしたのであるから、ましてそれが人権についての根源的な問題もそんなもの位にして、取り扱ってさえいないのは当然のことである。

ヒンズー教にしても、非ヒンズー教徒に対してのみならず、低いカーストのヒンズー教徒に対しても徹底的に敵対するもののようであり、それによって神の慈悲の世界を人類のずっとずっと小さな部分に限定してしまっている。ヒンズー教は定めている。「もしもバラモンが低いカーストの一人に負債を返済できない時は、その低いカーストの人には返済請求権はない。しかしもしも反対に低いカーストの者がバラモンから借りた債務を履行できない場合には、その負債を完済できる時までバラモンのために労働者として働かねばならない。」と。

再びユダヤ教をとってみると、ある人の敵に対する道義的考えを見出すことは不可能である。ユダヤ教では、「すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼を全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。」と教えている。

Manu Smriti:10:35

私はここで比較のために同じ問題点についてのイスラームの教えのいくつかを例として引用してみようと思う。

1. 人を栽くにあたっては正義をもってのぞめ。

2. たとえあなた自身やあなたの両親、親戚に背くことになっても、正義を遵守する上ではあくまで厳しく、アッラーの証人となりなさい。

3. たとえあなたの敵、説を異にする人々であっても、正義以外の何ものをもってものぞむことがないように。常に公正に裁きなさい。それはとりもなおさず義により近いことである。

4. あなたに闘いをいどむ者には、アッラーのやり方で戦いなさい。しかし度を過ごしてはならない。アッラーはやりすぎる者を好まない。

5. 彼らが平和をねがうなら、汝もまた平和を心がけよ。

イスラームの永遠の教えの中で引用したいこの他の例は、復讐と寛容についてのものである。この点に関してイスラームの教えを他宗教のそれと比べてみる時、我々はすぐにも旧約聖書の命令を心にはっきりと思い浮かべるだろう。 「目には目、歯には歯、手には手、足には足、(をもって償わなければならない。)

旧約聖書 申命記:7章2節

聖クルアーン:4章59節

同4章136節

同5章9節

同2章 91節

同8章 62節

旧約聖書

出エジプト紀、21章24節

このように復讐を強調することは、ただ単に不可解であるだけでなく、我々の心を痛ませるのは当然である。とはいっても、私はこの例を、他の宗教教義をこきおろすために引用したわけではなく、聖クルアーンの本質という光に照らしてみるならば、時にはこういう荒々しいやり方さえも許されるだろうということを示したかっただけである。聖典聖クルアーンは、我々が他の宗教間の対立する数々の教えについてゆこうとする時、このようにして同情と理解の精神で我々を助けてくれ

る。そしてこのことは、またイスラームだけの他にはみられない特質なのである。聖クルアーンによると徹底的に復讐を果たすということは、ある特定の時期のある特定の必要にあわせてだけ命じられたものだ、とされている。つまりこれはイスラエルの民が長期間犠牲に供され捕囚となって、その結果臆病になり、自分達が劣った民族だという抜き難いコンプレックスを抱くようになった後で、彼らの権利のために立ち上がる気力を与えるため、どうしても必要だったのだ。明らかにこのような状況下では、寛容の精神を強調するのは適切なことではなかったろう。というのは、かえってそれではイスラエルの民はより深い難渋へ身を沈め、情けない捕われの足枷を外して立ち上がる自信や勇気を持つことにはならなかっただろう。それゆえにこの教えは、これが授けられたその時点では、正しく適切なものであり、正しくそれは全智なる神により与えられたものであった。他方新約聖書を考えるとき、前述の旧約とは正反対に、どのような復讐の権利をもイスラエルの民から徹底的に取り除いてしまうところまで、寛容の方に強調を置いている。このことの本当の訳は、長い時の経過のうちに、旧い教えを実行することにより、イスラエルの民が無常で冷酷になり、これは彼らの復讐する権利を一定期間さし止めることで治すしかなかったからである。これがイエスが彼らに次のように訓戒を与えた理由である。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたが聞いている ところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなた を訴えて、上衣を取ろうとする者には、外套をも与えなさい。

イスラームはこの二つの相反する教えを、互いを補足するものとして受け取っており、各々がその当時の条件や状況下ではふさわしいものであったとみなしている。それゆえ、そのいずれをとっても普遍的で永遠の内容であるとはいい難い。

このことは完全に次の理由による。すなわち、人はまだその発達の初段階におり、まだ最終的で普遍的な法を与えられるほどの、お互いを尊重できる礼節のレベルに辿りついていなかったということである。我々は、イスラームこそがその最終の法であり、場所や時間に影響されない一つの教えを示しており、人が考えうるどんな問題についてもその教えで十分に説明がつく。

聖クルアーンには次のようにあります。

「傷つけることの報いはそれに似た傷を受けることだと心にとめよ。しかしなが ら誰であれ許す者、そしてそれによって改心をもたらす者は、アッラーの報償 にあづかる。確かにアッラーは悪事を働く者を愛してはおられない。

イスラームはこのように昔の教えの両方の最良面を結びつけているのである。教えの本来の目的は犯罪者を立ち直らせることにあるから、もしも犯罪者を改心させ更正させる効果を生むものなら寛容は良しとされる。また他方、いい結果をのぞめず罰が必要となれば罰も良しとされる。ただし犯罪の程度を超えるまでに罰してはいけない。確かにその教えは人間の自然として完全に理にかなっており、十四世紀も昔のこの教えが示された時と全く同様に今日なお合理的である。

新約聖書、マタイによる福音書 5章38~40節

聖クルアーン:42章41節