宗教間の差異と矛盾-その現実

もし全ての宗教が実際神の使者達により創立されたのであれば、では一体何故それらの教義の間に差異を生じるのか、というものである。同じ神が違った教えをお授けになるということがあろうか。この問に答え

聖クルアーン:2章286節

得るのはイスラームだけであり、そしてまた、これがこの宗教の顕著な特徴である。イスラームは、数々の宗教の間にある違いには二つの基本的な理由があると考えている。その第一は、変化する状況はそれに対応して変化する指図とか規則を必要としてきたということで、全知全能の神は異なった時代にも、宗教にも、人民にもそれら各々の必要に応じて指針を与えて来られたということである。第二は、様々の宗教の教えの内容というものは、時の移り変りにつれ色褪せ衰え、それゆえそれら宗教が成立当初の姿のまま残っていることはないからである。いくつかの場合には信徒自らが、移り変る必要に応じて刷新や変化の手を加え、そうするためには元来啓示により著わされた教典にも、どんどん書き入れが増えることとなった。このように神のメッセージに明らかに手を加え、これを曲げていった結果、遂にはその宗教のよって来たる大元、すなわち神、により新しい導きの命が下ることとなった。聖クルアーンの中で神は言われた、「彼らは言葉の正しい意味を曲解し、彼らに訓戒を与えてくれたその言葉の良い部分を忘れてしまった。」と。

もしいろんな宗教間の相違点の歴史を、聖クルアーンが明らかにしている原則に照らし合わせて検討してみれば、各々の宗教の大元に近づくにつれて、それらの違いはだんだんと薄れてゆく傾向にある。たとえば、キリスト教とイスラームを、イエスの生涯と四つの福音書という点に限って比較してみれば、聖書とクルアーンの基本的な教えの間にはごく小さな違いしか見出せないだろう。けれども時の流れに沿い、歴史を下るにつれて、これらの相違点はだんだんと広がり、遂には両者の間に全く交流はあり得なくなる。そしてそれはすべて元来啓示により与えられたものを修正しようという人間の努力のゆえにそうなったのである。他のいろいろな宗教の歴史もまた、同じくこの現実を露にしており、我々はクルアーン的な視点でものを観ることが正しいものとの確証を得た。それは神のメッセージを人が変更し、勝手な修正を加えようとする時にはいつの場合にも、その方向は、唯

クルアーン:5章14節

一神の崇拝から複数の神々の崇拝へ、事実から作り話へ、そして自然のままの人間性から人間の神格化へと向うというものである。

聖クルアーンが我々に語った真の宗教を見分ける確かな方法とは、後々元来の教えが失われていったとしても、ともかくその宗教の大元をよく調べてみることだ、というものである。もしその宗教の大元が神の唯一性を教え、その唯一神以外どんな神をも礼拝してはいけないと教え、全ての人類に真実で本物の同情を示しているならば、そのような宗教は、たとえ時と共にその内容に変更がみられたとしても、真実のものとして受け容れるべきだ。今述べた基準を満たす宗教の開祖達は、正しく神聖な人々であり、神につかわされた真の使者だったのだ。彼らのいづれを信じ、いづれを信じないという区別はつけず、彼らの語る真実を我々は平等に完全に信じるべきである。時と場所の違いを超えて彼らには全てに共通するある基本的な特徴がある。