今日、祭りや祝い事は、あらゆる社会において、人間の生活に不可欠な要素となっている。それら祭りや祝い事の多くは、昔の社会的儀式や宗教的習慣、あるいは永く人々の脳裡に留めておくべき出来事の記念等を起源としている。イスラーム教徒にとって、宗教的な祭りはすべて特別な意味を持っている。実際、イスラーム教では、様々な宗教的行事や礼拝等の最後に、一種の祭りと呼べるものを設けている。毎日礼拝を続け、週の最後に、ジュマの礼拝とも呼ばれる金曜礼拝を祭りとして行っている。また、断食月明けに行われる祭りはイードル・フィトルと呼ばれる。そして、メッカのカーバ神殿で巡礼の儀式が終わると、イードル・アドハとして知られる祭りが行われるのである。
これらの祭りは、ムスリムたちが単に喜び合い、幸せを味わう時とばかりは言えない。イスラーム教は、ムスリムのあらゆる行動を通して、その心に神の讃美を新たに植えつける。それゆえ、それらの祭りも一種の礼拝そのものと言うことができよう。イスラーム教は、神を讃えることで、ムスリムの行為を一つ一つ織りあげてきた。だから、日常の行為、例えば、座る、立つ、歩く、眠る、靴や服を身に着ける、家の外へ出る、中へ入る、旅に出る、旅から帰る、何かを売買する、食べる、飲む、風呂に入る、モスクに入る、出る、友と会う、敵に立ち向う、新月を見る、仕事を始める、終える、薬を飲む等のごく普通の行為でさえも神の讃美と深く結びつけてきたのである。
メッカの偶像崇拝者たちが、聖なる預言者に狂信者というレッテルを貼ったのも、無理からぬことであろう。世俗的な者なら、これらの事を全く狂気の沙汰と見なすであろう。しかし、人生の現実を理解する者ならば、人生の真の目的は、全能の神アッラーに帰依し、常にアッラを念じることにあると知っていよう。それゆえ、ムスリムにとって祭りの日とは、単に御馳走を食べ、楽しく浮かれ騒ぐ日ではなく、アッラーを褒め讃え、その属性を思い起し、アッラーの無限の祝福と恩寵に感謝を捧げる日なのである。
イスラーム教は中庸を好む宗教である。従って、信者たる者は、いかなる時も贅沢に耽ることは禁じられている。信者は、喜びや悲しみの余り正気を失うような極端な振舞いは許されない。イスラーム教は、神によって与えられたものを、節度を守って食べるように説いている。例えば、聖典クルアーンには、次のように記されている。
「さあ、人間たちよ、この世にあるもので、法に適った、健全なものだけを食べるのだ。悪魔の仕業を真似てはいけない。悪魔は間違いなくお前たちの敵である。」(2章169節)
また、イスラーム教は信者たちに、満腹になるほど一度に沢山食べてはいけないとも教えている。イスラーム教の聖なる預言者は、次のように言われた。「お前たちの腹は、3分の1を水で、もう3分の1を食料で、そして残りは空気を入れておく為、空のままにしておくのだ。」と。聖なる預言者はまた、水やその他の飲み物も一息に飲んでしまうな、むしろゆっくりと少しずつ、少くとも3度は途中で休みながら飲むように、とも命じられた。
イスラームの教えでは、信者は自分の幸福を他の者たち、特に助けを必要としている者や貧しい者等と分け合わなければならない。
聖典クルアーンには、次のように記されている。
「真に徳の高い者は、アッラーの愛の為、貧者、孤児、捕虜等に食料を与え、こう言って彼らを安心させてやるのだ。『我らはただ、アッラーに喜んでいただこうと思い食料を分け与えているのだ。お前たちからは、何の報酬も感謝も期待していないのだ。』と。」
(76章9、10節)
「彼らは、贅沢でもけちでもなく、その中間を保っている。」
(25章68節)
「彼らは財産については、要求できる者もできない者(例えば、動物など)も権利を有する。」(51章20節)
食料を使うことに関して、ムスリムは、ほんのわずかな食べ物も粗末にしてはならないと命じられている。聖典クルアーンでは、次のように記されている。
「アダムの子らよ。礼拝所においては、常に心身ともに健全な状態を保つのだ。そして飲み食いすれば良い。しかし、浪費はいけない。まこと、アッラーは浪費は好まれない。」(7章32節)