イスラームから見てのキリスト教

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

「イスラーム」の名前の由来は、平安です。「イスラーム」という名前はアッラー(神様)によってつけられた名前であり、聖コーランの第5章4節にその由来が書かれています。さてアラビア語で「イスラーム」は平安、純潔、承服、と意味します。ですからイスラームが示唆する人々は、アッラーに忠実につかえ、彼の万物の一つである、人間と平和にくらす人々となります。

イスラームは新しい宗教ではなく、今まで世界にあった宗教の教えを原点にもどし、宗教がなぜ人間にとって必要なのかを教えた宗教であります。したがってムスリムであるためには六信を信じなければなりません。

その六信とは

  • 唯一全能の神を信じる
  • 天使の存在を信じる
  • 神からの全ての啓典を信じる
  • 神からの使いであるすべての預言者を信じる
  • 来世の存在を信じる
  • 定命(善と悪が存在すると信じる)

今日は、イスラームの信仰の第四の基本信念である、すべての預言者をムスリムは信じるという事について皆さんに話しをしたいと思います。

聖コーランには、数多くの預言者たちについて書いてあり、預言者アダムから始まり、預言者ムハンマド(彼等にアッラーの平安あれ)までが啓示されています。我々ムスリムは、この世界が始まってから約12万4000人もの預言者がアッラーによっておくられたと信じています。ですから、すべての預言者について、聖コーランに書かれてはいませんが、聖コーランは次のように述べます。

“いかなる民も、警告者が遣わされなかった民はなし”第35章25節

その警告者を差別せず、すべての預言者を信じることについては、第2章286節に書かれています。

“彼等は皆、アッラー、天使、啓典、並びに使徒たちを信じて、使徒たちの間に差別を設けることなし”

原則的にこの信念は、他のすべての宗教に存在しない聖コーランのユニークな宣言です。それは創造主の普遍性だけでなく、イスラーム自体の普遍性をも表します。聖コーランが全世界のためであるという主張のためには、すべての預言者の真実を認識する必要があります。でなければイスラームは他宗教徒との間に連絡橋を作ることはとうていできません。

聖コーランには次のような節があります。

“啓典の民よ、我らとお前たちの間にある共通の言葉のところへ来れ”

すべての啓典の真実、またすべての預言者の認識は、人間のために数多くの利点をもち画期的な宣言であります。一番重要なポイントは、この信念によって宗教間の調和のための道を開くことができることです。お互いの教え、または信念をけなしたり、真実を自分の宗教だけにとどめる者はどうやって平和で住みやすい社会を築き上げることができるでしょうか?

イスラームを除いて、他の宗教はどれも他宗教の創始者また啓典についてそれらは真実であった、もしくは真実であると証言しません。自分自身の預言者以外の預言者は、詐欺師のように扱われ、真実は独占する形になっています。そして互いの宗教とはそのことが理由で絶縁しています。

そこで今日は、イスラームがイエス(彼にアッラーの平安あれ)について信者にどう説いているのかを皆さんに聖コーランを引用して少し教えたいと思います。

まず始めに、イエス(彼にアッラーの平安あれ)の母であるマリアについて聖コーランに次のように述べられています。

“マリアよ、アッラーは汝を選び、汝を清め、しかしてすべての女性の上に汝を選びたり。

マリアよ主に従順であれ。神を敬いてひれ伏せよ。神を崇めまつる者と共に神のみを崇拝せよ“

第3章43-44節

この節のつづきには、イエス(彼にアッラーの平安あれ)について書かれています。そして、彼の名前も神が自らマリアに天使をつうじて啓示したと述べられております。その節は次の通りです。

“マリアよ、アッラーはじきじきのお言葉で汝に朗報を受けた給う。彼の名はメシア、マリアの子イエスなり。彼は、現世ならびに来世において高い栄誉を得、神のそば近く寄れるの一人たるべし。

彼はゆりかごの中においても、また壮年になってからも人々に語りかけ、必ずただしき人たらん“

また彼の紹介だけにとどまらず、彼の名前は聖コーランにて16回もでてきています。彼が自分の人生で何を成し遂げたのかも明白に述べています。第3章50節

イスラエルのこどもらへの使徒として、かくなる神託を持たせて派遣せん。我は主の奇跡をたずさえてお前達にきたれり。すなわち、土くれをもって鳥の形を造り、それに息を吹き込めば、アッラーのお許しにより空に舞い上がる鳥とならん。また我は盲人や、らい病人を癒し、アッラーのお許しにより死者を生きかえらさん。

ここで述べられている奇跡はすべて隠喩的に述べられています。土から鳥を作るとは、鳥の生態を利用して、イエス(彼にアッラーの平安あれ)が、ユダヤ教徒が真の教えから離れてしまったため、彼らに少しずつ正しい教えを、母鳥が雛に少しずつえさを与えるように教え、彼らが正しい道へもどるよう祈り彼等を支えた事をこの隠喩は意味しています。

それと同じように、盲人を癒したとは、皆が世俗主義になってしまい、宗教にたいして盲人と同じように、教えが見えなくしまったため、彼等を癒したという意味を持っています。

最後に、この教え聖コーランをアッラーから啓示された預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)が、キリスト教徒とどう接したのかを皆さんに伝えたいと思います。

イスラームにおいて「平和」の定義は、自分が好むものを相手のためにを好むです。自分が好むものを自分以外のためにも望めば、お互いの権利を尊重することができ、平和な社会が生れます。

預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)はこの平和を築くため、自分が持っている教えを広めるため日々努力しました。しかし彼の努力は、剣を振り回してではなく、心を勝ち取っていく努力をしました。したがって彼は、メディナ周辺の王族達に手紙を書いてはイスラームの教えについて伝えました。しだいには、周辺から、遠くまでの王族たちにも手紙を書きました。その中で、ナジュラーンに住むキリスト教徒へももちろんこの平和なメッセージは送られました。それを読んだキリスト教徒たちは、まず3人の遣いを送りメディナはどういう場所で預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)は何を布教しているのか調べに行かせました。その後、彼等は、一度帰り、再び60人ほどの団体でメディナを訪問しました。訪問した際、預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)と同僚たちは、お祈りをしており、お祈りを終えた後預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)は彼等と談話しはじめました。すこし時間が経つと、キリスト教徒たちは、お祈りがしたいと といかけ、預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)は躊躇なく、モスクでお祈りをしても大丈夫と伝えました。したがって彼等は東の方角へ向き、自分のやり方でモスクでお祈りをしました。この話を聞いてびっくりする方もいると思います。しかし、これが、イスラームの教えです。モスクは、唯一の神様を崇める場所であり、ムスリムだけが立ち入りのできる場所だけではなく、ムスリム以外も入ることができます。礼拝だけでなく交流することのできるすばらしい場所でもあります。

話をもどしますが、ナジュランの人々は、預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)と会談した後、帰ろうとした際、預言者ムハンマド(彼にアッラーの平安あれ)は、彼等に権限書をわたしました。その内容を読み上げて私のスピーチとさせていただきます。

これはムハンマド、アブドゥラの息子からのメッセージである。キリスト教を信じる人にたいしての契約として、我々は近かろうと遠かろうと彼らと共にいます。キリスト教徒の市民は私の市民であるため、わたしの使用人、助手、信者は彼等を守ります。アッラーに誓って私は、彼等を不愉快にするものを取り除きます。彼等に強制は一切ありません。彼らの裁判官は自分の仕事からまた僧侶たちは自分の僧院から追い出されません。誰もかれらの宗教の拠点を損傷、あるいはそこからイスラーム教徒の家に何かを持ち出すことはゆるされません。

もしだれかがこのような行為をした場合彼は、神との約束を破り、彼の預言者に従わないだろう。本当に、彼らは私の同盟者であり、彼らが憎むものすべてに対して私の手堅い憲章を彼らは持っています。誰も彼等を追い出したり、または戦うことを彼等に義務ずけてはなりません。イスラーム教徒は彼らのために戦わなければなりません。もしイスラーム教徒との結婚相手が女性キリスト教の場合、彼女の承認を得ずに結婚はできません。彼女が祈るために、教会を訪問したいのであればそれを防止してはなりません。彼らの教会は尊重されるべきです。彼等は(教会)を修復または神聖な盟約を防止することもあってはなりません。イスラーム教徒の誰もがこの権限書に(世界の最後の日まで)さからってはなりません。