イスラームの教えにおける女性の地位

イスラームは社会に平和をもたらせるため個人の生活の平和、家庭の平和そして社会そのものの平和ですが、一つ一つわかりやすく聖クルアーンに説明してあります。

神様の啓示そして行動は矛盾していない。神様の教えたことは合理的でありまして結果的には間違いなく神様の言葉が人間の計画より優先するのです。

清らかな社会を設立するのはイスラームの基本的な教えであります。今日は清らかな社会について話しましょう。

性的に社会に男女付き合いが必要であって大事でありますけれども、ちょっとした不注意のため男女の交わりの自由が人間を不自由にしてしまうということがありますので、イスラームの教えはこの点について非常に詳しく説明されています。

姦通は文明が進んだどこの社会でも禁じられているのですが、イスラームは姦通を禁じるというのではなく、姦通に近づかないようその道を遠ざけるように教えるのです。そのために男女の交わりを限定するのです。できるだけ共に教育したり、職場であまりにも男女が親しくなったりすることを避けるように教えるのです。その上知らない人の前では若い女性がベールをすることを勧めるのです。イスラームは日常生活に喜びや遊びを禁じているのではありません。しかし、もしその喜びが安らぎを奪うことであれば、その喜び、その遊びは何の意味もないと言っているのです。もしある遊びによっていくつかの家の家庭生活がおかしくなったりすることであればその自由は自由でもないし、結果的にその遊びは喜ばせるものであるといえなくなるのです。そういう哲学がありましてイスラームでは男女の交わりを厳しく断ち切るのです。

社会の発展に女性がどのぐらいすばらしい役割を果たしているかは明らかであって誰でもわかることです。イスラームは女性のために合理的基礎を紹介するのです。男女平等を進めながら次のように教えます。

「公平にみて、女性は男性と同等の権利を有すといえども、男性は女性より一つ上に位す。」(2:229)

聖クルアーンはなぜ主人が家に一位上にあるのか説明しています。

「男は女の保護者なり。それはアッラーがあるものを他より優れるものとし男は女のために己が財を費やすが故なり」(4:35)

イスラームは男女平等を大事に思っているのです、しかし平等の意味が合理的であって男性と女性の体、才能、力にあうような平等です。ご飯一杯で満足になる人に4杯を食べさせるのが平等ではない。10kgの荷物を背負って2kmを楽に歩く人がいれば10km歩ける人もいる。2kmしか歩けない人を必ずほかの人と同じく10km歩かせるのが平等ではない。男女の体、力に合わせたスポーツルールもその哲学によって異なるのです。

また女性が持っている才能が男性にはない。男性はいくら力をあわせても女性と同じく子供を生んだり母の心を持ったりすることができない限りそのような平等になれないのです。

女性の方はイスラームでは元来、遺産を受けることがなかったし、財産を持つことも禁じられていたのです。女の子が生まれるのが不運と思われ、生き埋めにされる場合もあったのです。男性が数多くの妻を財産のように持っていたのです。証人になることはめったに許されなかったのです。

イスラームは進んだ文明を紹介して紳士な生活をするように望んだのです。日本ではイスラームについて講演をしているとほとんど会場にいる誰かがイスラームでは奥さん4人まで許されているのは本当ですか。そのとき冗談半分で主人4人まで許されていないから神様に感謝しますというムスリムの声も聞いたりします。イスラームは性的に乱れた社会を望まないし、イスラームの女性は誰でも結婚しなければならない義務があります。戦争やほかの災いで女性より男性の死亡が多く、未亡人が社会にあふれてくるのです。そういう状態に日本も合いましたが、結果的に戦後社会がどのように乱れたのか、明らかであります。

このような状態についてイスラームは次のように語っています。

「もしお前たち孤児を公正に扱い得ざる恐れがある場合、良しと思う女を娶るがよい、二人なり、三人なり、四人なり。されど、もし公平に扱い得ざる恐れないならば、ただ一人の女か、或いはお前たちの右手が所有するものを娶れ。これは不公平を避けるための一番の近道なり。」(4:4)

非イスラーム社会では以上話した理由のほかには妻が重い病気にかかったり、主人がある女性に惚れてしまったり、奥さんが子供を生めないなどの理由で新人と結婚するために大事な奥さんと離婚せざるを得ない場合があるのですが、イスラーム社会ではそういう場合に離婚よりもう一人別の人と結婚したほうがよろしいとの教えがあります。法律的に許されているので新人との関係を隠す必要もないのです。