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第21回東京国際ブックフェアを無事終える事ができました。約1万人の方々にイスラムの平和なメッセージを伝えることができ、大成功でした。今回のブックフェアで新しく出版された「聖預言者ムハンマドの生涯」人気を集めました。この他にも「聖クルアーンの研究の手引き」や「イスラム教徒の祭りと儀式」等の出版物も多いに販売されました。こちらの書籍をお買い上げになりたい方は連絡ください注文承ります。  

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イスラム教における平和と国際関係 平和、希望、調和、善意そして兄弟愛の宗教であるイスラム教が、近年様々なテロ行為や蛮行の加害者によって、そのイメージを酷く傷つけられてきたことは遺憾である。 この問題を解決するために下記の3つの事項に注目したいと思う。 1.イスラム教における外交特権と戦争の倫理 2.イスラム教におけるジハード 3.イスラム教における平和と国際関係 外交特権と戦争の倫理 イスラム教の聖典-コーランによると、神は肌の色、人種、国籍などに関係なく、全ての個人に栄誉を授けた。自由は神の素晴らしい恩恵の一つであり、それを欠くときわめて悲惨である。イスラム教の神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはない。戦争捕虜は唯一、通常の宣戦布告がなされた戦争や戦闘の場合のみにとらえられ、他の理由や口実の下にはとらえられない。聖コーランは以下の様に述べている。 「正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。」 (8:68) この節は、過去の奴隷制度の慣習を根絶させるだけでなく、今日、実際の戦闘に関与していない無実の人々を人質にしたりハイジャック行為をすることを正当化する一部のイスラム教徒の理論を覆している。 別れの説教でイスラム教の聖なる預言者は、捕虜に与えるべき優れた扱いの指示を与えた。聖なる預言者は言った。 「おお、人々よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な  物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。」 戦争と捕虜の扱いの倫理に関する一層具体的な戒めが、コーランの第四十七章、第五節に含まれている。この多くの意味を含む詩は次のように言い換えることができる。 「通常の戦闘に従事したら、勇敢かつ執拗に戦うべきである。戦争は平和と良心の自由が確立されるまで続くこともあり得る。捕虜は慎重に取るべきである。自由な人たちは、義にかなった合理的な理由無しに自由を奪われることはない。戦争が終わったら、捕虜たちは恩恵の行為として、または身代金の支払いにより、または相互交換交渉によって解放されるべきである。」 イスラム教の歴史では、これら全ての方法が捕虜の解放に用いられてきた。解放を得る一つの新しい方法は、教育を受けた捕虜が身代金の代わりに、文盲の人たちに読み書きを教えることだった。 この詩はさらに、イスラム教の名を騙りイスラム教の旗の下に今日のテロを正当化しようとする者たちの根拠を根底から危うくする。 外交使節は、イスラム教の体制では特権階級に属する人々である。彼らは個人的特権を十分に享受している。彼らはその動機にいくら価値が有っても、政治的な身代金の対象にはならず、彼らを誘拐することは凶悪犯罪である。彼らは殺されたり、危害や虐待を受けてはならない。聖なる預言者の生涯には、これらの原則の適用を示す多くの実例がある。 従って、外交特権に関するイスラム教の聖典とイスラム教の聖なる預言者の教えには曖昧さがない。一言で言えば、どのような形であれ、外交使節や民間人を人質にしたり虐待することは、イスラム教の教えや教義とは全く無縁である。言い換えれば、イスラム教の哲学は完全にテロを拒否している。 イスラム教におけるジハードの概念 ごく一部の構成分子の行動を通じて、西側世界はジハード(聖戦)について間違ったイメージを持っている。ジハードという言葉は、剣を振り回し異教徒を攻撃する、残忍なあごひげを生やし炎のような目をした宗教の狂信者たちが行進する光景を想起させる。 イスラム教用語のジハードは、高貴な方法で努力し、努め、懸命に試みることを意味する。何世紀にも渡って、このジハードの意味は消失したか、少なくとも希薄になっている。イスラム世界における重大な転機に、ジハードの本当の初期の意味を復活させ取り戻す必要がある。 ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。 第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり、故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。 第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。コーランが語っているのは、イスラム教徒を先制攻撃した者に対する戦闘のみであり、これは聖コーランの他の詩にも規定されている。イスラム教の聖典のいわゆる剣の詩は、全ての不信心者たちに無差別の大虐殺を諄々と説き聞かせるかのように、何度も文脈から取り出される。あなたが見つけるものは何でも殺せ、のようなコーランの言葉は、敵が先にイスラム教徒を攻撃してきた場合にのみ適用され、その誓いや確約を破る不信心者たちや敵に対して用いられる。それらは、挑発に寄らない戦争や戦いには用いられない。それ以外の方法でこれらの詩を解釈すれば、イスラム教の崇高な理想を戯画化することになるだろう。聖なる預言者の生涯において、剣あるいはイスラム教の他に採り得る道を誰かに提供した例は一つも無い。 欧米のメディア及び一部の学者は時として、ジハードのこれらの2つの側面の相違を無視している。聖なるコーランは、信仰の問題に関してはジハード、聖戦を行わないことを忘れてはならない。聖なる預言者の言葉や伝統はそれを、常に不正確に戦闘的表現に陥りがちな激しい闘争の形で表現する。現代のテロは、イスラム教におけるジハードの真の精神の領域とは相いれない。 イスラム教を西側世界が、神の権威を装って不当な人的、物的な苦しみや破壊を引き起こす権利を自らに与える未熟で原始的な宗教とみなしても、それは我々が聖なるコーランと聖なる預言者ムハンマドの教えに見出すイスラム教ではない(平安とアッラーのご加護を!)。 イスラム教における平和と国際関係 神の属性の中で、聖なるコーランは、アッラーは平和の根源であり安全を与える者である(59:23)と言及している。従って、平和の確立と安全の維持は、全てのイスラム教徒にも非イスラム教徒にも等しく不変の目的でなければならない。平和を乱す全ての営みと活動はイスラム教では厳しく非難されている。聖なるコーランには特定の禁止命令が見出せる。 「そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない….」 (7:57;11:86; 29:37) 危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。 イスラム教は、平和と秩序を乱したり破壊しがちな要因に注意を喚起し、それらを非難する。一国内のある集団による別の集団の支配、または国家間のある民族による別の民族の支配は、平和を妨げる重要な原因として強く非難される。別の民族は国による一民族または一国の経済的搾取は、必然的に支配につながり、平和に対する潜在的脅威に発展する。聖コーランはそのような搾取を禁止している。搾取に基づく経済は結果的に有益では有り得ず、長く持ちこたえることもできない。 イスラム教は、平和、良心の自由、そして人間の福祉の増進の追求に緊密に結びついた、強固かつ安定した国家とそのような国家間のつながりを具体化する。国家間の条約や条項は簡単な言語で行われ、何らかの優位性を確保したい誘惑によって回避または拒否されることなく作成される必要がある。困難や紛争に、平和的な解決や調整をもたらすのはイスラム教徒の義務である。 聖コーランは、神が全ての人々に啓示を時々、送っていると教えている。旧約聖書の預言者たちやイエスは、全てのイスラム教徒から大いに尊敬され崇拝されている。確かに、コーランはこれら全ての預言者たちを信仰するよう求めている。イスラム教はこのように、全ての預言者への信仰を求める点、唯一かつ独特のものであり、故にイスラム教は、様々な宗教の信者の間に和解をもたらして彼らの間に尊敬と名誉の礎を確立しようと試みる。コーランは次のように言う。 「げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。」(2:63) 。同じ託宣が5:70で繰り返されている。全ての宗教の信者の基本的結束が聖なるコーランで力強く強調され、テロによる不和や分裂が生じることがあろうと無かろうと、イスラム教に入り込む余地は全くない。 国際関係の分野では、宗教及び宗教間の関係が重要な位置を占めている。残念なことに、人間関係のこの側面にはあまり注意が払われない。宗教は各個人にとって私的な問題であり、従って生活の政治的、社会的側面とは直接の関係がないと思われている。この仮定は正当化されない。イスラム教は平等主義的な宗教であり、単なる個人的な信仰ではなく、価値観や行動の包括的な掟である。イスラム教は人間関係における重要な要因であり、今後もそうあり続けるだろう。イスラム教は、目標を達成するために宗教的、政治的指導者に必要とされ続けるのみならず、団結と調和を促進するためにも重要である。 平和時であろうと戦争時であろうと、テロ行為はイスラム教では非難される。それだけでなく、テロは明らかに全人類の主である神への服従を通して、平和を象徴するイスラム教の教えに相いれないことも述べて、私は結論を下す。 神の律法への服従によってのみ、私たちはテロの無い安全な世界という理想を達成することができるのである。 日本アハマディア・ムスリム協会 日本本部長 主任宣教師 アニース・アハマド・ナディーム

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国を尊び、愛することは良い民族の義務であり、信仰の一部である。   日本アハマディア・ムスリム協会は小さな協会ですが、イスラム教の真の教えを広める唱道者であり代表者です。それでも、日本在住のアハマディはどの方も国家に非常に忠実な国民であり、愛国心が強いと言わざるを得ません。これは、愛国心が信仰には欠かせない一部であると訓令した我々の預言者(SA)の教えによるものです。 イスラムの教えは、約束されたメシア・現世の改革者と我々が信じるアハマディア・ムスリム協会の創始者によってさらに練り上げられ力説されてきました。 全知全能の神は、彼がメシアであると公表した際、彼に二つの責務を課したと彼は言いました。一つは神への責務、そしてもう一つは神の創造物への責務です。そして彼は続けて、神の創造物への責務を果たすことはもっとも困難で繊細な挑戦であると言いました。

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イスラム法において合法なものの事をハラールといい、非合法なもののことをハラームといいます。そして、最近ではそれ以外のハラールでない物の事を非ハラール(non halal)と称する事もあります。      良いものを提供する’ そのこころは。 ハラールはひと言でも、意味として2つあります。1つはイスラム法で合法であること、そしてもう1つは健康的、清潔、安全、高品質、高栄養価であることです。 イスラムでは我々の日常において常に清潔を保つ事、自分が摂取するのにふさわしい良いものしか他人にも与えません。これがハラール タイバーンのコンセプトの源となります。 それによって管理、監視されたものがハラール製品となりますので、ハラール製品はムスリムにとってのみ良いものなのではなく、誰にとっても健康的で良いものであると言えるでしょう。 23:52. あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。 ハラールの表記 ハラールとはアラビア語でحلال、と書きます。ローマ字で書くとHalalです。  ムスリムにとって、ハラールの食品のみを口にすることは神(アッラー)の教えに忠実に従うこと、すなわち信仰そのものです。聖典コーランにはこのように書かれています。 ◎ハラールか、ハラームかは明確である。 5:4.あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、籤で分配されたものである。これらは忌まわしいものである。今日、不信心な者たちはあなたがたの教え(を打破すること)を断念した。だからかれらを畏れないでわれを畏れなさい。今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。しかし罪を犯す意図なく、飢えに迫られた者には、本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。 5:5.かれらは何が許されるかに就いて、あなたに問う。言ってやるがいい。「(凡て)善いものはあなたがたに許される。あなたがたがアッラーの教えられた仕方によって訓練した鳥獣があなたがたのために捕えたものを食べなさい。だが獲物に対して、アッラーの御名を唱えなさい。アッラーを畏れなさい。本当にアッラーは清算を極めて速くなされる。」 23:52.あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。 神が良いとしているもののみを食する、それ以外の行為をすることはすなわち背信行為にもなりかねない。従って、神に身を委ねるイスラム教徒にとって、ハラールではない物を口にすることは罪をおかす事になります。それはイスラムの信仰の根源でもある神への信仰心から、罪に対する懲罰を恐れてそのような行為は日常的にすることはありません。 イスラム教徒のハラール食へのこだわりは、ただ単なる人の好き嫌いではありません。豚肉入りの物を豚をよけたからといってハラールになる訳でもないですし、スープやブイヨンにそれらが使用されていたら、いくら見た目は分からなくても、食することはできません。トンカツをあげた同じ油であげられた野菜や魚も食することはできません。フランス料理で使われるワインや日本食・中華で使われる料理酒はたとえ使用する食材がハラールであっても、アルコールを入れることでハラールではなくなります。  食物が人の道徳や行動に影響を及ぼす。  食物は必ず人間の道徳や行動に影響を与えます。聖クルアーンにも供述されています。 汝等信徒達よ清潔なものを食し、善行をなせ。(アルモーメヌーン:52) たとえば、肉を全く食さない人は勇敢さに欠ける。反対に肉しか食さず野菜類を摂取しない人は柔軟、謙虚さに衰えがあります。このことは草食動物が肉食動物程勇気をもたないという、自然的法則によって証明されています。ですから道徳、行動が食物の影響を受けることは疑いがありません。ゆえに肉、野菜をバランスよく摂取することが両方の徳性(勇気、柔軟)を発達させる、最良の方法です。 クルーアーンではこう述べられています。 飲みかつ食べよ、しかし適度であれ。(アラーフ:32) すなわち、肉やその他の食物を食べよ、しかし度をこしてはならない、なんじの道徳的状態を悪くしないために、また汝の健康を損なわないために。

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「4月28日」はサンフランシスコ平和条約が発効した日である。政府はこれを祝う「主権回復の日」記念式典を初めて開催した。 実は1951年、サンフランシスコ講和会議において、パキスタンは南アジアから唯一の重要な国として出席をしました。中国は招待をされず、インドとビルマ はそれぞれの事情から出席を見合わせました。会議において、パキスタンは日本に対して平等に接するように強く求め続けました。当時パキスタン外務大臣でありアハマディアムスリム協会の敬虔な信者であったザファルラー・カーン氏は、会議の場で、歴史に残る演説を残しました。彼は「日本の平和は、正義と公正によって維持されなければならず、復讐や反発の気持ちを抱いてはいけない。将来、日本は世界で社会的、政治的な重要な役割を果たすことになるであろう。日本は輝かしい未来を持っている国であり、必ず平和を愛する人々なのだ。」と日本の立場を擁護しました。

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イスラームの素晴らしい教えを理解が出来てないムスリム達、学校教育を受けてない方々、そして過激派等の指導者たちに惑わされている数少ないイスラム教徒は、イスラムの名を汚し、慈悲深い我が主でありますアッラーと平和のシンボルである、親愛なる預言者ムハンマド様(SAW)が教えて下さったことを忘れている人たちが、いまテロなどを起こし、社会の平和を破壊しています。 タリバンやアルカイダまたはナイジェリアのボコハラムという組織などがただ女性と少女の学校教育を反対してるだけではなく、彼らは知識、人間性そしてイスラムの最悪な敵だと思います。 日本アハマディア・ムスリム協会はこの拉致行為を強く批判し少女たちの救済のために、心からお祈りを申し上げます。 聖クルアーンと預言者ムハンマド様(SAW)の教えによりますと、イスラームの女性には市民権や社会権、政治的権利や経済的権利など様々な権利が与えられています。 “宗教に強制はない。”(クルアーン2: 257) という原則の教えがあって学校教育と知識を得られるのを義務付けられています。女性への教育は、「次世代が豊かになる」のです。預言者ムハンマド様がおしゃったのは( “知識を求めることは全ムスリム男女の義務です”。(預言者ムハンマド(SAW)) “学校教育を受けれる事は全ムスリム男女の義務です”。 イスラムは男女間の平等にも関わらず、自然な男女の違いを認識し、かつ促進しています。ある種の仕事は男性の方が適しており、また別のある種のものは女性の方が適しており、これは互いの努力や利益を縮小してしまうものではありません。神はそれが必ずしも同じ活動ではなくとも、男女とも平等にその仕事の価値に応じて報われます。 母親について預言者様(SAW)は、こう言いました: “天国は彼女の足下にあるのです。”(アン=ナサーイー) これは、社会の成功がそれを育てる母親たちからみられることを意味します。安心、愛情、訓練など人への最初の偉大な影響は母親から受け取るものなのです。そのため、良い両親になるために子供を持つ女性は教育を受けていて、良心的でなければなりません。 イスラームは、ムスリマ女性に家庭内における保護、世話の責任を課しています。そして母親は、子供の教育において、第1の責任者です。正しい教育は、すばらしい人格と信仰を持った行いが、正義感を持った世代を世の中に送り出すことになります。 『母親は夫の家において、世話をし、家庭を守る者であり、家族に対して責任があります』(ブハーリー、ムスリム) 母親は、子供達すべてに同等に接しなければなりません。そして親が、子供達のうちの一人だけを愛情やプレゼントなどで、特別扱いしてはいけません。小さい子の頬にするキスでさえも、同等に公平にしなければなりません。預言者様(SAW)は、言われました。 『子供達に与えるものにおいて、公平さを保ちなさい。あなた達が、人々に公正に優しく、誠実にされることを好むのと同じように。』 年下を可愛がり、年上には礼儀正しくあること, 人間が平等で, 誰でも一緒に祈ったり, 座ったり, 食事をとったりすることが当然であります。男女平等はが今、世間で話題になっているのですが, イスラムは以前より平等を求め, それぞれの義務と権利を表しています。己にとって敵であっても正義に取り扱うことも大事なことです。 子供や大人, 特に女性の学校教育を大事にするような教えがありまして家族に自分の両親、配偶者の親戚を大事にする教えです。 イスラムの基本的な教えには、宗教に強制はいけないとありますが,残念な事にテロ活動をイスラムに繋げる考えが多くあります。イスラム教は固くテロ活動を禁止しています。人間を大事にする教えを忘れた人だけ、そういう残酷な態度をとっていると思えばいいのです。イスラムの名を名乗って反イスラム教活動だと思えばよいでしょう。そういう活動をしている人はイスラム、そして真のムスリムではありません。本当のイスラムは暖かいものであり、かつ親切で、我々は姉妹・兄弟である。 アッラーに帰依し、人の目よりも神の目を畏れる。 これが真のムスリムである。 日本アハマディア・ムスリム協会 日本本部著、主任宣教師 ナディーム アニース アハマド  

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我々は、欧米がイスラム教に対する非常に深刻な不正義のことについて皆さんに注目したいです。聖クルアーンの教えや聖なる預言者ムハッマドの差し止め命令の引用を見てみればイスラムは平和のみの宗教であることがわかるのです。イスラムは人間のすべての側面をカバーし、イスラム教徒に、仲間同士との人間関係と共に神に関する関係に平和のメッセージを届くのです。我々は何の偏見や矛盾の恐れがなくてイスラム教以外の宗教がイスラム教に比べてわずかでも平和に強調しないことを確かに言えるのです。ほとんどの宗教の信者が同じような主張をするのですが、ここで我々は経典に書かれた差し止め命令が完全に支持した宗教の話しをしているのです。もしすべての宗教がイスラム教と同じぐらいの程度で人間関係に平和の役割を強調するなら、これは大歓迎されるべき表意であって、我々がこれを褒めなければならなくてこれに我々が人間の将来の希望を築くことができるのです。世界のそれぞれの宗教のリーダーシップに現在人間が必要とする平和のメッセージを持って出る主な役割があるのです。 残念ながらイスラム教徒が神の名において、平和の師表であった聖なる預言者の名においてテロ活動を推進して世界平和にとって脅威として表しているのです。欧米がイスラムがテロの宗教や人間性を否定する宗教として表すならこれにすべてのせいは欧米のではないのです。これはせめてイスラム教徒のあらゆる団体の神学者のせいもなるでしょう。人間が興味のあるすべての側面に宗教が優先していることを話題にすると同時にイスラムは国際的に認められた人権を強く否定する宗教だと。これこそがイスラムのイメージに傷つける証拠に十分であるのです。 他の宗教の経典が普遍に理想的平和を提供したかどうかにもかかわらず、我々はすべての宗教がそういう理想的な状態がないと矛盾の恐れがなくていえるのです。これは国際平和のために全世界の宗教指導者が手を組んで協調努力のために基礎を築くのです。我々が意見の違いを争うより宗教指導者がお互いに効果のある合意点を見出す推薦ができることのほうがよいのです。これは各宗教を結合因子になると我々が確実に思うのです。したがってこれは国籍、人種、肌色を超えて人類を一つにする役割を果たすでしょう。もし各宗教がこの役割を果たさなかったら、他の誰もこれを果たすことができないでしょう。なぜかというと、宗教だけが国籍、地理、人種に関する障害を取り除く能力があるのです。 国際リーダーシップにこの本格的なお願いすると共によい結果を希望して、この小さな論文を終わりにしましょう。平和のためのお願いは人間の存在の問題です。これを気楽にしないほうがよいでしょう。(Elementary Study of Islam)

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Zakat

今度は貴社や博愛のための支出について話しましょう。すべての宗教には何とかの形で寄付制度があるのです。宗教によってアッラーの道にかけての支出はちゃんと十分の一の寄付が制度化にされているのです。それぞれの信者がどのようにどのぐらいの寄付をしたいのか個人に任せてあるのです。これはイスラム教の教えが普遍的であることのもう一つの証拠になるのです。このことについての詳しい勉強が聖クルアーンや聖なる預言者ムハッマドのお言葉そして聖なる預言者ムハッマドの日常生活のたとえで説明しようと思うのです。このテーマは非常に広いテーマで人間が興味のあるすべてのことをカバーしているのです。 我々はイスラム教に制度化された寄付や制度化されてない寄付、両方を見ることができるのです。両方の区域が良く定められているのです。イスラム教はこれだけに終わらずできるだけの重要さと要求を説明するのです。イスラムは聖クルアーンの教え通りに人々に行うべきことや行わないべき事を説明し博愛するための詳しい案内を与えてくれるのです。博愛のためにされた寄付のうちどの寄付が神様に喜ばれるのかまたどの寄付が喜ばれないのか、はっきりと聖クルアーンに述べられているのです。先ほど述べたようにこのテーマは非常に広大なテーマでこの論文ではすべてのことをカバーするのが不可能であるのです。しかしこの教えが普遍的であって、この教えの深い勉強する人はこの重要な教えの本当の情緒がわかるのです。博愛のために一割を払うことについてイスラム教の教えは明らかで曖昧さはないのです。(Elementry Study of Islam)

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Kaba

はどの宗教にもありうるものです。ただ異なるのは礼拝の礼儀ややり方の違いです。イスラム教の礼拝はユニークであって各宗教の礼拝の特徴がこの礼拝に含まれているのです。礼儀正しく立っている礼拝をする人いれば、正座して礼拝する人もいるのです。立ってお辞儀する礼拝する人々もいれば座って頭を下げる人々もいるのです。神様に土下座する人もいれば俯く人々もいるのです。手を置くんで神様に礼拝する人々もいれば手を両側に置いたままにしておく礼拝者もいるのです。とにかく、各宗教に一つの特定の方法が統一しないのです。イスラム教は信者に礼拝について詳しく教えるのです。したがって他の宗教の礼拝のすべての姿勢は象徴的にイスラム教の礼拝に代表しているのです。これはイスラム教は普遍的な宗教であることを表すにはもう一つの大きな一歩であるのです。 イスラム教の礼拝制度はとても進歩した制度で人間のすべての要求を満たすのです。まず覚えておくべきことですが、この礼拝の目的はただ自分より優れた方に頭を下げるとか神の偉大さを尊敬するためのものではないのです。神は自分が褒められて満足する資質のために人間を創造したでしょうか。礼拝の哲学に記載されたすべての目的を見て、また、イスラム教徒が礼拝を行う礼儀の仕方を見てわかることですが、礼拝は参拝者のためになることであって神様に役に立つことではないのです。聖クルアーンによると神様は人間に褒め称えてもらうのは目標にしないのです。神がとても素晴らしい気高さにいて栄光の特性があって自分の創造者よりの褒め称えが彼の寛大や威厳に何の増加もできないのです。ある日イスラム教の創立者聖なる預言者ムハッマドが次のように語ったのです。「もしすべての人間が神を背いても、できる限りあらゆる罪を犯しても、彼たちが神の普遍的な栄光を何の減少することはできないでしょう。それを例として言えば、すべての人間の罪は、人が鋭い針を広い海に刺した後、針が海の水を減少するぐらいも神の栄養に減少することができないでしょう。 聖クルアーンによると、礼拝は参拝者にのみ役に立つものであるのです。これはとても広いテーマであるが、我々は聖クルアーンや聖なる預言者ムハッマドの言葉によりわずかにいくつかの点を表すことができるのです。 礼拝中に神の名を唱えたり神の美徳を思案したりするのは人間の精神を清めるのです。神の性質にもっと中和できるのです。これはイスラムの礼拝の中心になるところであるのです。人は創造者になる神のイメージに作られたもので、自分の創造者に近づくように努力しなければならないのです。これは確実な気高さの秘密であるのです。神のように考える訓練をする人々や人間の限った能力があって神のように行動するように努力を維持するのです。 人間のたとえで言えば、この話がお母さんが自分の子供に対する態度でよくわかるのです。こどもが本当にお母さんと近くになることを目的にすれば、お母さんが望むすべてのは、なんとなく子供の望ましいものになるのです。創造者が自分の創造したものに対する態度を確かめるのは芸実者の自分の芸実に対するたとえで十分理解できるでしょう。神が創造した人々に親しくならない限り、神に親しくなるのが不可能であるのです。また聖クルアーンでは礼拝のために使用した単語ですが他の宗教に礼拝のために使われている単語とまったく違う素晴らしい単語です。アラビア語のアイン、バ、ダール三つを合わせて作った単語の基本的な意味は「奴隷」です。奴隷が自分の主に対してすべてのを捨てて主だけに従うと同時にイスラム教では参拝者が自分の神に対して同じようにすべてを捨てて従わなければならないのです。礼拝のために使われた不定詞は誰かの足跡を踏んで従うという包摂があるのです。それは絶対神の属性をまねするという意味になるのです。聖クルアーンでは以下のように書かれているのです。 إِنَّ الصَّلاةَ تَنْهى عَنِ الْفَحْشاءِ وَ الْمُنْكَرِ げに礼拝は、人をみだらな行為と悪事から防止する。(29章46節) この節は肯定的内包も否定的内包も両方があるのです。両方とも人間に対する理想的な関係を表すには大変重要になるのです。否定的な内包ですが、参拝者をすべての罪より解放するために支えてくれるのです。肯定的内包で言えば人間の教育を清める立場をもっと耕して神との付き合いの程度を変えてくれるのです。 このことに関してもう一つの大変重要なことは礼拝によって参拝者の魂を豊かにする役割です。イスラムによると肉体的関係のある魂がお母さんの子宮にいる胎児に影響すること可能です。健康な赤ちゃんを産むためには、いくつかの影響が必要になるのです。その影響が耐えずにお母さんより胎児に、あとの段階で成長した赤ん坊にするのです。もしお母さんより子供に影響が不健康的であれば子供が生まれつき不健康になるのです。もし影響が健康的であれば生まれた子が健康を楽しむのです。人間の魂は成長したり変更を要求したりするには神様を崇拝するのが重要な要因になるのです。 イスラム教の礼拝は、他の宗教に、ないぐらいの効果に比べて豊富な効果があるのです。イスラムは集団礼拝そして個人で行う礼拝両方を望むのです。集団礼拝は驚くほどとても意味のある礼儀正しくやる礼拝です。 一人の指導者がいてすべての集団礼拝をリードするのです。そのリーダが普通の牧師ではなく、人々がこの目的のために適当と思ってイマームとして選んだ方です。集合のとき礼拝する人々がイマームのおしろにちゃんと配列するように忠告されるのです。礼拝する人々はお互いに近づいて間をあけないで肩と肩を合わせて立つように言われるのです。みんな指導者であるイマームを完全に従うのです。イマームがやるすべての行動を従うのです。参拝者はイマームがお辞儀すると同時にみんなお辞儀し、彼が立つと同じようにみんなが立つのです。彼が土下座すると同じようにみんなが土下座するのです。もしイマームが間違いを起こしたら、思い出させても無視した場合、すべての宗徒がその間違った行動を従わなければならないのです。礼拝中イマームに質問することはできないのです。すべての参拝者は例外なし同じ方向へ顔を向かなければならないのです。みんなが一番最初に人々のために礼拝堂として立てられた神殿に顔を向くのです。礼拝堂にイマームの後ろに誰かのために特別な場所を予約してはいけないのです。こうして金持ちと貧しい人そして年上の人と若い人みんな平等に取り扱われるのです。礼拝堂に先に来た人は好きなように礼拝堂に座ることができるのです。礼拝堂に座っている人にみなさんの安全のため以外、他の場所へ移るようにいえないのです。みんなの安全のことは管理関係のことになるのです。要するにイスラム教の礼拝制度は精神的に優れているだけではなく共同社会や有機体の指導にも優れているのです。 すべての礼拝堂は一日五回に訪問されるのです。これは普通の観測者にやりすぎではないかと見えるかもしれないのです。集団礼拝がイスラム教徒の生活に果たす役割をわかりやすくするために、また完全的に理解するためにもっと説明しましょう。もちろん、理想的なイスラム社会では市民、誰でも集団礼拝を行うために簡単に行けるぐらいの距離に礼拝堂があってムスリムに日常生活の一部になってくるのです。一般の人々にお昼の礼拝はもんだいになるのです。しかし、イスラムの社会ではこの礼拝はお昼の休憩に行うのです。このようにお昼ご飯のための休憩はもう少し長くして礼拝も行うことができるのです。お昼の礼拝の次の礼拝は午後の礼拝です。この礼拝はほとんど毎日の仕事が終わったすぐ、後の礼拝です。その後は、日が沈むまで礼拝はないのです。この時間は外出の時間でスポーツや買い物へ出かけたり散歩したり、友人や親戚の家を訪問します。この時間は娯楽する時間でこの時間に礼拝するのは許されてないのです。わずかのイスラム教徒はこの時間が静かに神様を賛美する習慣にしているのです。日が沈むと信者の夜は礼拝で始まるのです。この礼拝の後はまた娯楽する時間です。食事を取ったりします。夜、寝る前に、礼拝があってイシャーというのです。イシャーの後に時間を無駄にするような噂話などで過ごすのはいけないことになっているのです。 イスラム教徒が早寝早起きの習慣にするのを奨励されるのです。翌朝は夜明けのちょっと前に日常生活が始まるのです。夜が終わるときの礼拝はタハッジュドというのです。この礼拝は義務付けられているではないのです。しかしこの礼拝は大変重要な任意の礼拝であるのです。夜明けが朝の礼拝をつれてくるのです。この礼拝はファジュルといいます。ファジュルと日が出るまでに理由が明らかであるが、任意礼拝が許されていないのです。そしてお昼の礼拝ズフルまで二つの任意礼拝も述べてあるのです。これ以外にお昼まで礼拝がなくて日常の仕事を続けばよろしいなのです。 イスラム教の礼拝をもう一つの角度から見ると礼拝の制度がどのようにしっかりしているのか十分わかるのです。ちゃんとまとまった完全な制度です。また集団礼拝の中に大きな声でクルアーンを朗読するようなことがあるのです。歌みたいな声で大きく朗読するのです。それは実に歌っているとはいえないですが、それをリズミカルな朗読であって非常に心に深く感じるのです。聖なる預言者はせいクルアーンを朗読したとき少しさびしく朗読したほうが良いといわれたのです。これは聖クルアーンのそれぞれの節の意味を深く考えるために非常に良いこてであって心に深く影響するのです。いくつかの礼拝、特に午後の二つの礼拝には大きな声で朗読してはいけないのです。これは時間的に見ればよいことです。早い午後だと鳥なども歌うのをやめるのです。この時間対に一般的に静かであって普通の仕事につく時間になるのです。朝の礼拝、日が沈んだ後の礼拝、そして夜になるときの礼拝、これすべては時間的に聖クルアーンの節を朗読するのが普通のやりかたになるのです。 礼拝は二つに分けることができるのです。集団礼拝とともに個人でやる礼拝も非常に進められるのです。集団礼拝では社会が集会的にはっきりと明らかに神様を崇拝するのです。個人の礼拝では内緒が大事でその中に祈ったことを他の人の前にいう必要はないのです。同様に夜中の礼拝のお祈りも完全に内緒であるのです。同じ家に住んでいる人が祈る隅を探して祈っているのです。夫婦でもお互いに内緒で別のところで礼拝をやりたいのです。神とのこの接触はとてもパーソナル関係になるのです。 集団礼拝制度はこの間のおよそ1400年に非常に役に立つようなことがわかるのです。この集団礼拝の聖なる制度を保護するために礼拝堂が中心になっていたのです。礼拝堂はこの気高な制度の存在を残こすには役割を果たしたのです。礼拝堂は教育センターになって子供や大人に教育を与えるためにも役割を果たしたのです。歴史上礼拝堂は宗教の教え、そして一般的の指導に非常に役立つ場だったことがわかるのです。 イスラム教では集団礼拝堂でも個人礼拝の所でも綿密に清潔しておかなければならないのです。靴を抜いて礼拝堂に入ることを望まれるのです。どの礼拝にでも礼拝やる人は場合によってちょっとだけですが、また場合によって長い時間のため自分の額で床を触らなければならないのです。驚くほどのことでイスラム社会では額から額へ皮膚病が移らないのです。これはとても明らかになった事実で人によって清潔さのため、また人によって神様の祝福のためであると思われるのです。 礼拝の言葉ですが、二つの種類があるのです。 1.正式的にクルアーンの一部を朗読することや他のお祈りをすることです。これはクルアーンの言葉アラビア語でやらなければならないのです。みんな礼拝中、唱えているこのクルアーンの言葉の意味を知ることを期待されるのです。そうでなければ、礼拝する人は礼拝によって得られる価値もある広大な恩恵に奪われるでしょう。もし礼拝の内容について詳しく話したら話が長くなる恐れがあるのでこれで終わることにしよう。礼拝の内容について詳しく知りたい人はそれについての案内書を勉強すればよろしいでしょう。 もう一つの種類は個人的に行うお祈りの言葉ですが、このお祈りは礼拝する人が母国語で祈ることが可能です。このお祈りで好きなように何でも祈ることができるのです。礼拝の言葉のこの二つ目の種類が宗派によってさまざまです。言葉の意味を知らなくてもアラビア語以外の言葉で個人的な言葉を使って祈ることができないという解釈があるのです。いくつかの法学派にはこれが許されていないのです。決まった言葉だけで祈るのを進むのです。もちろんどの宗派でも個人の言葉で祈る必要を感じて正式的な礼拝の後に自分の言葉で祈るのを許すのです。アハマディア・ムスリム協会は正式的な言葉以外に自分の言葉で神様に好きなように祈ることを進むのです。 以上十分説明したように一日五回に個人的に礼拝にしてもまたみんなと一緒に集団礼拝にしてもイスラム教の礼拝非常に優れている制度があるのです。このように信者の個人的な道徳制度また精神的程度を高めるためにイスラムの礼拝は信者の生活に大きな役割を果たすのです。(Elementary Study of Islam)

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  皆さん!いかがですか。イスラムを学ぶへようこそ。イスラム教の教え、文化などについて今まで話題になるさまざまなことについて話してきました。 イスラム社会の文化について人々と話していると、必ずといっていいほど、イスラム教の礼拝のことが話題になります。毎日礼拝を行っている人は礼拝により精神的に安らぎを得てその後の仕事がはかどると礼拝の効用を語ってくれます。 この間礼拝について話をしましたが、今日は礼拝のやり方について詳しく話したいと思います。 礼拝の回数はラクアトといいます。ラクアトはキヤーム、ロクー、サジダ、カーダの動作を組み合わせた単位のことです。礼拝によりラクアトの数は多少異なります。 カーバ神殿に向かって立ち、「アッラーは偉大な神」と言っておなかの前で両手を組み、アッラーを奉り、聖クルアーンの一部を唱えるのはキヤームといいます。次は両手をひざに当てお辞儀をするのはルクーといいます。 次は頭を地面につけ二回お辞儀をするのはサジダといいます。そして、最後に正座のように座るのはカーダといいます。右そして左を向きながら「皆さんに平和と慈悲あれ」といって礼拝を終わります。 イマーム(導師)と共に行われる礼拝はファラドといって中心になって義務付けられた礼拝です。その前後に行われる礼拝はスンナといいます。ウィトルの礼拝はイシャーの後または朝ファジュルの前に行います。 ナファルの礼拝はいつでもできる随意の礼拝です。 一日五回の礼拝の時刻とラクアトの回数 ファジュル 日の出前 ズフル お昼すぎ アスル 日没前 マグリブ 日没後 イシャー 寝る前 スンナ前)    ファラド      スンナ後)     ウィトル ファジュル               2                      2             [...]

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