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第21回東京国際ブックフェアを無事終える事ができました。約1万人の方々にイスラムの平和なメッセージを伝えることができ、大成功でした。今回のブックフェアで新しく出版された「聖預言者ムハンマドの生涯」人気を集めました。この他にも「聖クルアーンの研究の手引き」や「イスラム教徒の祭りと儀式」等の出版物も多いに販売されました。こちらの書籍をお買い上げになりたい方は連絡ください注文承ります。  

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今月2日から5日まで東京ビッグサイトにて東京国際ブックフェアが開催されます。日本アハマディアムスリム協会は今回も出展させていただくことになりました。 イスラム教関連の本、冊子などが多々あるのでご時間がおありの方は是非お越しください。

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イスラムの素晴らしい教えを理解が出来てないムスリム達、学校教育を受けてない方々、そして過激派等の指導者たちに惑わされている数少ないイスラム教徒は、イスラムの名を汚し、慈悲深い我が主でありますアッラーと平和のシンボルである、親愛なる預言者ムハンマド(SAW)が教えて下さったことを忘れている人たちが、いまテロなどを起こし、社会の平和を破壊しています。 タリバンやアルカイダまたはナイジェリアのボコハラムという組織などがただ女性と少女の学校教育を反対してるだけではなく、彼らは知識、人間性そしてイスラムの最悪な敵だと思います。 日本アハマディア・ムスリム協会はこの拉致行為を強く批判し少女たちの救済のために、心からお祈りを申し上げます。 聖クルアーンと預言者ムハンマド(SAW)の教えによりますと、イスラムの女性には市民権や社会権、政治的権利や経済的権利など様々な権利が与えられています。 “宗教に強制はない。”(クルアーン2: 257) という原則の教えがあって学校教育と知識を得られるのを義務付けられています。女性への教育は、「次世代が豊かになる」のです。預言者ムハンマド様がおしゃったのは( “知識を求めることは全ムスリム男女の義務です”。(預言者ムハンマド(SAW)) “学校教育を受けれる事は全ムスリム男女の義務です”。 イスラムは男女間の平等にも関わらず、自然な男女の違いを認識し、かつ促進しています。ある種の仕事は男性の方が適しており、また別のある種のものは女性の方が適しており、これは互いの努力や利益を縮小してしまうものではありません。神はそれが必ずしも同じ活動ではなくとも、男女とも平等にその仕事の価値に応じて報われます。 母親について預言者様(SAW)は、こう言いました: “天国は彼女の足下にあるのです。”(アンナサーイー) これは、社会の成功がそれを育てる母親たちからみられることを意味します。安心、愛情、訓練など人への最初の偉大な影響は母親から受け取るものなのです。そのため、良い両親になるために子供を持つ女性は教育を受けていて、良心的でなければなりません。 イスラムは、ムスリマ女性に家庭内における保護、世話の責任を課しています。そして母親は、子供の教育において、第1の責任者です。正しい教育は、すばらしい人格と信仰を持った行いが、正義感を持った世代を世の中に送り出すことになります。 『母親は夫の家において、世話をし、家庭を守る者であり、家族に対して責任があります』(ブハーリー、ムスリム) 母親は、子供達すべてに同等に接しなければなりません。そして親が、子供達のうちの一人だけを愛情やプレゼントなどで、特別扱いしてはいけません。小さい子の頬にするキスでさえも、同等に公平にしなければなりません。預言者様(SAW)は、言われました。 『子供達に与えるものにおいて、公平さを保ちなさい。あなた達が、人々に公正に優しく、誠実にされることを好むのと同じように。』 年下を可愛がり、年上には礼儀正しくあること, 人間が平等で, 誰でも一緒に祈ったり, 座ったり, 食事をとったりすることが当然であります。男女平等はが今、世間で話題になっているのですが, イスラムは以前より平等を求め, それぞれの義務と権利を表しています。己にとって敵であっても正義に取り扱うことも大事なことです。 子供や大人, 特に女性の学校教育を大事にするような教えがありまして家族に自分の両親、配偶者の親戚を大事にする教えです。 イスラムの基本的な教えには、宗教に強制はいけないとありますが,残念な事にテロ活動をイスラムに繋げる考えが多くあります。イスラム教は固くテロ活動を禁止しています。人間を大事にする教えを忘れた人だけ、そういう残酷な態度をとっていると思えばいいのです。イスラムの名を名乗って反イスラム教活動だと思えばよいでしょう。そういう活動をしている人はイスラム、そして真のムスリムではありません。本当のイスラムは暖かいものであり、かつ親切で、我々は姉妹・兄弟である。 アッラーに帰依し、人の目よりも神の目を畏れる。 これが真のムスリムである。 平成26年5月4日 日本アハマディア・ムスリム協会 日本本部長 ナディーム・アニース・アハマド

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イスラム教における平和と国際関係 平和、希望、調和、善意そして兄弟愛の宗教であるイスラム教が、近年様々なテロ行為や蛮行の加害者によって、そのイメージを酷く傷つけられてきたことは遺憾である。 この問題を解決するために下記の3つの事項に注目したいと思う。 1.イスラム教における外交特権と戦争の倫理 2.イスラム教におけるジハード 3.イスラム教における平和と国際関係 外交特権と戦争の倫理 イスラム教の聖典-コーランによると、神は肌の色、人種、国籍などに関係なく、全ての個人に栄誉を授けた。自由は神の素晴らしい恩恵の一つであり、それを欠くときわめて悲惨である。イスラム教の神の摂理の下では、誰も正当な理由無くして捕虜になることはない。戦争捕虜は唯一、通常の宣戦布告がなされた戦争や戦闘の場合のみにとらえられ、他の理由や口実の下にはとらえられない。聖コーランは以下の様に述べている。 「正規の戦いで打ち負かした敵に非ざれば、捕虜とするは預言者には相応(ふさわ)しからず。」 (8:68) この節は、過去の奴隷制度の慣習を根絶させるだけでなく、今日、実際の戦闘に関与していない無実の人々を人質にしたりハイジャック行為をすることを正当化する一部のイスラム教徒の理論を覆している。 別れの説教でイスラム教の聖なる預言者は、捕虜に与えるべき優れた扱いの指示を与えた。聖なる預言者は言った。 「おお、人々よ、あなたがたはまだ戦争の捕虜を扱っている。故に、私はあなたがたに助言する。あなた方が着る服、食べる食物と同様な  物を彼らにも与えるように…..。彼らに痛みや苦悩を与えることは決して許されない。」 戦争と捕虜の扱いの倫理に関する一層具体的な戒めが、コーランの第四十七章、第五節に含まれている。この多くの意味を含む詩は次のように言い換えることができる。 「通常の戦闘に従事したら、勇敢かつ執拗に戦うべきである。戦争は平和と良心の自由が確立されるまで続くこともあり得る。捕虜は慎重に取るべきである。自由な人たちは、義にかなった合理的な理由無しに自由を奪われることはない。戦争が終わったら、捕虜たちは恩恵の行為として、または身代金の支払いにより、または相互交換交渉によって解放されるべきである。」 イスラム教の歴史では、これら全ての方法が捕虜の解放に用いられてきた。解放を得る一つの新しい方法は、教育を受けた捕虜が身代金の代わりに、文盲の人たちに読み書きを教えることだった。 この詩はさらに、イスラム教の名を騙りイスラム教の旗の下に今日のテロを正当化しようとする者たちの根拠を根底から危うくする。 外交使節は、イスラム教の体制では特権階級に属する人々である。彼らは個人的特権を十分に享受している。彼らはその動機にいくら価値が有っても、政治的な身代金の対象にはならず、彼らを誘拐することは凶悪犯罪である。彼らは殺されたり、危害や虐待を受けてはならない。聖なる預言者の生涯には、これらの原則の適用を示す多くの実例がある。 従って、外交特権に関するイスラム教の聖典とイスラム教の聖なる預言者の教えには曖昧さがない。一言で言えば、どのような形であれ、外交使節や民間人を人質にしたり虐待することは、イスラム教の教えや教義とは全く無縁である。言い換えれば、イスラム教の哲学は完全にテロを拒否している。 イスラム教におけるジハードの概念 ごく一部の構成分子の行動を通じて、西側世界はジハード(聖戦)について間違ったイメージを持っている。ジハードという言葉は、剣を振り回し異教徒を攻撃する、残忍なあごひげを生やし炎のような目をした宗教の狂信者たちが行進する光景を想起させる。 イスラム教用語のジハードは、高貴な方法で努力し、努め、懸命に試みることを意味する。何世紀にも渡って、このジハードの意味は消失したか、少なくとも希薄になっている。イスラム世界における重大な転機に、ジハードの本当の初期の意味を復活させ取り戻す必要がある。 ジハードは大きく2つのカテゴリーに分けることができる。 第一は偉大なるジハードである。これは罪深い性向を抑制する自分自身の人格に対するジハード、すなわち自己の浄化である。これは最も困難なジハードであり、故に報酬と祝福の観点から見れば最高のカテゴリーのジハードである。 第二は、小ジハードである。これは剣のジハードである。これは共同参加のジハードであり、ある特定の条件を前提とする。コーランが語っているのは、イスラム教徒を先制攻撃した者に対する戦闘のみであり、これは聖コーランの他の詩にも規定されている。イスラム教の聖典のいわゆる剣の詩は、全ての不信心者たちに無差別の大虐殺を諄々と説き聞かせるかのように、何度も文脈から取り出される。あなたが見つけるものは何でも殺せ、のようなコーランの言葉は、敵が先にイスラム教徒を攻撃してきた場合にのみ適用され、その誓いや確約を破る不信心者たちや敵に対して用いられる。それらは、挑発に寄らない戦争や戦いには用いられない。それ以外の方法でこれらの詩を解釈すれば、イスラム教の崇高な理想を戯画化することになるだろう。聖なる預言者の生涯において、剣あるいはイスラム教の他に採り得る道を誰かに提供した例は一つも無い。 欧米のメディア及び一部の学者は時として、ジハードのこれらの2つの側面の相違を無視している。聖なるコーランは、信仰の問題に関してはジハード、聖戦を行わないことを忘れてはならない。聖なる預言者の言葉や伝統はそれを、常に不正確に戦闘的表現に陥りがちな激しい闘争の形で表現する。現代のテロは、イスラム教におけるジハードの真の精神の領域とは相いれない。 イスラム教を西側世界が、神の権威を装って不当な人的、物的な苦しみや破壊を引き起こす権利を自らに与える未熟で原始的な宗教とみなしても、それは我々が聖なるコーランと聖なる預言者ムハンマドの教えに見出すイスラム教ではない(平安とアッラーのご加護を!)。 イスラム教における平和と国際関係 神の属性の中で、聖なるコーランは、アッラーは平和の根源であり安全を与える者である(59:23)と言及している。従って、平和の確立と安全の維持は、全てのイスラム教徒にも非イスラム教徒にも等しく不変の目的でなければならない。平和を乱す全ての営みと活動はイスラム教では厳しく非難されている。聖なるコーランには特定の禁止命令が見出せる。 「そして、地上が整えられた後、無秩序を起こしてはならない….」 (7:57;11:86; 29:37) 危害や邪悪は他のいくつかの詩でも非難されており、イスラム教徒はひとえに平和のために力を尽くすように命じられている。 イスラム教は、平和と秩序を乱したり破壊しがちな要因に注意を喚起し、それらを非難する。一国内のある集団による別の集団の支配、または国家間のある民族による別の民族の支配は、平和を妨げる重要な原因として強く非難される。別の民族は国による一民族または一国の経済的搾取は、必然的に支配につながり、平和に対する潜在的脅威に発展する。聖コーランはそのような搾取を禁止している。搾取に基づく経済は結果的に有益では有り得ず、長く持ちこたえることもできない。 イスラム教は、平和、良心の自由、そして人間の福祉の増進の追求に緊密に結びついた、強固かつ安定した国家とそのような国家間のつながりを具体化する。国家間の条約や条項は簡単な言語で行われ、何らかの優位性を確保したい誘惑によって回避または拒否されることなく作成される必要がある。困難や紛争に、平和的な解決や調整をもたらすのはイスラム教徒の義務である。 聖コーランは、神が全ての人々に啓示を時々、送っていると教えている。旧約聖書の預言者たちやイエスは、全てのイスラム教徒から大いに尊敬され崇拝されている。確かに、コーランはこれら全ての預言者たちを信仰するよう求めている。イスラム教はこのように、全ての預言者への信仰を求める点、唯一かつ独特のものであり、故にイスラム教は、様々な宗教の信者の間に和解をもたらして彼らの間に尊敬と名誉の礎を確立しようと試みる。コーランは次のように言う。 「げに信ずる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにサービア人たち、(注61)そのいずれたるを問わず、アッラーを信じ、最後の審判の目を信じ、善行を積む人々は、主より必ず報奨を賜わらん。而して彼等には、恐ろしきこと悲しきこと起らざるべし。」(2:63) 。同じ託宣が5:70で繰り返されている。全ての宗教の信者の基本的結束が聖なるコーランで力強く強調され、テロによる不和や分裂が生じることがあろうと無かろうと、イスラム教に入り込む余地は全くない。 国際関係の分野では、宗教及び宗教間の関係が重要な位置を占めている。残念なことに、人間関係のこの側面にはあまり注意が払われない。宗教は各個人にとって私的な問題であり、従って生活の政治的、社会的側面とは直接の関係がないと思われている。この仮定は正当化されない。イスラム教は平等主義的な宗教であり、単なる個人的な信仰ではなく、価値観や行動の包括的な掟である。イスラム教は人間関係における重要な要因であり、今後もそうあり続けるだろう。イスラム教は、目標を達成するために宗教的、政治的指導者に必要とされ続けるのみならず、団結と調和を促進するためにも重要である。 平和時であろうと戦争時であろうと、テロ行為はイスラム教では非難される。それだけでなく、テロは明らかに全人類の主である神への服従を通して、平和を象徴するイスラム教の教えに相いれないことも述べて、私は結論を下す。 神の律法への服従によってのみ、私たちはテロの無い安全な世界という理想を達成することができるのである。 日本アハマディア・ムスリム協会 日本本部長 主任宣教師 アニース・アハマド・ナディーム

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国を尊び、愛することは良い民族の義務であり、信仰の一部である。   日本アハマディア・ムスリム協会は小さな協会ですが、イスラム教の真の教えを広める唱道者であり代表者です。それでも、日本在住のアハマディはどの方も国家に非常に忠実な国民であり、愛国心が強いと言わざるを得ません。これは、愛国心が信仰には欠かせない一部であると訓令した我々の預言者(SA)の教えによるものです。 イスラムの教えは、約束されたメシア・現世の改革者と我々が信じるアハマディア・ムスリム協会の創始者によってさらに練り上げられ力説されてきました。 全知全能の神は、彼がメシアであると公表した際、彼に二つの責務を課したと彼は言いました。一つは神への責務、そしてもう一つは神の創造物への責務です。そして彼は続けて、神の創造物への責務を果たすことはもっとも困難で繊細な挑戦であると言いました。

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イスラム法において合法なものの事をハラールといい、非合法なもののことをハラームといいます。そして、最近ではそれ以外のハラールでない物の事を非ハラール(non halal)と称する事もあります。      良いものを提供する’ そのこころは。 ハラールはひと言でも、意味として2つあります。1つはイスラム法で合法であること、そしてもう1つは健康的、清潔、安全、高品質、高栄養価であることです。 イスラムでは我々の日常において常に清潔を保つ事、自分が摂取するのにふさわしい良いものしか他人にも与えません。これがハラール タイバーンのコンセプトの源となります。 それによって管理、監視されたものがハラール製品となりますので、ハラール製品はムスリムにとってのみ良いものなのではなく、誰にとっても健康的で良いものであると言えるでしょう。 23:52. あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。 ハラールの表記 ハラールとはアラビア語でحلال、と書きます。ローマ字で書くとHalalです。  ムスリムにとって、ハラールの食品のみを口にすることは神(アッラー)の教えに忠実に従うこと、すなわち信仰そのものです。聖典コーランにはこのように書かれています。 ◎ハラールか、ハラームかは明確である。 5:4.あなたがたに禁じられたものは、死肉、(流れる)血、豚肉、アッラー以外の名を唱え(殺され)たもの、絞め殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で突き殺されたもの、野獣が食い残したもの、(ただしこの種のものでも)あなたがたがその止めを刺したものは別である。また石壇に犠牲とされたもの、籤で分配されたものである。これらは忌まわしいものである。今日、不信心な者たちはあなたがたの教え(を打破すること)を断念した。だからかれらを畏れないでわれを畏れなさい。今日われはあなたがたのために、あなたがたの宗教を完成し、またあなたがたに対するわれの恩恵を全うし、あなたがたのための教えとして、イスラームを選んだのである。しかし罪を犯す意図なく、飢えに迫られた者には、本当にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。 5:5.かれらは何が許されるかに就いて、あなたに問う。言ってやるがいい。「(凡て)善いものはあなたがたに許される。あなたがたがアッラーの教えられた仕方によって訓練した鳥獣があなたがたのために捕えたものを食べなさい。だが獲物に対して、アッラーの御名を唱えなさい。アッラーを畏れなさい。本当にアッラーは清算を極めて速くなされる。」 23:52.あなたがた使徒たちよ、善い清いものを食べ、善い行いをしなさい。われはあなたがたのすることを熟知している。 神が良いとしているもののみを食する、それ以外の行為をすることはすなわち背信行為にもなりかねない。従って、神に身を委ねるイスラム教徒にとって、ハラールではない物を口にすることは罪をおかす事になります。それはイスラムの信仰の根源でもある神への信仰心から、罪に対する懲罰を恐れてそのような行為は日常的にすることはありません。 イスラム教徒のハラール食へのこだわりは、ただ単なる人の好き嫌いではありません。豚肉入りの物を豚をよけたからといってハラールになる訳でもないですし、スープやブイヨンにそれらが使用されていたら、いくら見た目は分からなくても、食することはできません。トンカツをあげた同じ油であげられた野菜や魚も食することはできません。フランス料理で使われるワインや日本食・中華で使われる料理酒はたとえ使用する食材がハラールであっても、アルコールを入れることでハラールではなくなります。  食物が人の道徳や行動に影響を及ぼす。  食物は必ず人間の道徳や行動に影響を与えます。聖クルアーンにも供述されています。 汝等信徒達よ清潔なものを食し、善行をなせ。(アルモーメヌーン:52) たとえば、肉を全く食さない人は勇敢さに欠ける。反対に肉しか食さず野菜類を摂取しない人は柔軟、謙虚さに衰えがあります。このことは草食動物が肉食動物程勇気をもたないという、自然的法則によって証明されています。ですから道徳、行動が食物の影響を受けることは疑いがありません。ゆえに肉、野菜をバランスよく摂取することが両方の徳性(勇気、柔軟)を発達させる、最良の方法です。 クルーアーンではこう述べられています。 飲みかつ食べよ、しかし適度であれ。(アラーフ:32) すなわち、肉やその他の食物を食べよ、しかし度をこしてはならない、なんじの道徳的状態を悪くしないために、また汝の健康を損なわないために。

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「4月28日」はサンフランシスコ平和条約が発効した日である。政府はこれを祝う「主権回復の日」記念式典を初めて開催した。 実は1951年、サンフランシスコ講和会議において、パキスタンは南アジアから唯一の重要な国として出席をしました。中国は招待をされず、インドとビルマ はそれぞれの事情から出席を見合わせました。会議において、パキスタンは日本に対して平等に接するように強く求め続けました。当時パキスタン外務大臣でありアハマディアムスリム協会の敬虔な信者であったザファルラー・カーン氏は、会議の場で、歴史に残る演説を残しました。彼は「日本の平和は、正義と公正によって維持されなければならず、復讐や反発の気持ちを抱いてはいけない。将来、日本は世界で社会的、政治的な重要な役割を果たすことになるであろう。日本は輝かしい未来を持っている国であり、必ず平和を愛する人々なのだ。」と日本の立場を擁護しました。

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イスラームの素晴らしい教えを理解が出来てないムスリム達、学校教育を受けてない方々、そして過激派等の指導者たちに惑わされている数少ないイスラム教徒は、イスラムの名を汚し、慈悲深い我が主でありますアッラーと平和のシンボルである、親愛なる預言者ムハンマド様(SAW)が教えて下さったことを忘れている人たちが、いまテロなどを起こし、社会の平和を破壊しています。 タリバンやアルカイダまたはナイジェリアのボコハラムという組織などがただ女性と少女の学校教育を反対してるだけではなく、彼らは知識、人間性そしてイスラムの最悪な敵だと思います。 日本アハマディア・ムスリム協会はこの拉致行為を強く批判し少女たちの救済のために、心からお祈りを申し上げます。 聖クルアーンと預言者ムハンマド様(SAW)の教えによりますと、イスラームの女性には市民権や社会権、政治的権利や経済的権利など様々な権利が与えられています。 “宗教に強制はない。”(クルアーン2: 257) という原則の教えがあって学校教育と知識を得られるのを義務付けられています。女性への教育は、「次世代が豊かになる」のです。預言者ムハンマド様がおしゃったのは( “知識を求めることは全ムスリム男女の義務です”。(預言者ムハンマド(SAW)) “学校教育を受けれる事は全ムスリム男女の義務です”。 イスラムは男女間の平等にも関わらず、自然な男女の違いを認識し、かつ促進しています。ある種の仕事は男性の方が適しており、また別のある種のものは女性の方が適しており、これは互いの努力や利益を縮小してしまうものではありません。神はそれが必ずしも同じ活動ではなくとも、男女とも平等にその仕事の価値に応じて報われます。 母親について預言者様(SAW)は、こう言いました: “天国は彼女の足下にあるのです。”(アン=ナサーイー) これは、社会の成功がそれを育てる母親たちからみられることを意味します。安心、愛情、訓練など人への最初の偉大な影響は母親から受け取るものなのです。そのため、良い両親になるために子供を持つ女性は教育を受けていて、良心的でなければなりません。 イスラームは、ムスリマ女性に家庭内における保護、世話の責任を課しています。そして母親は、子供の教育において、第1の責任者です。正しい教育は、すばらしい人格と信仰を持った行いが、正義感を持った世代を世の中に送り出すことになります。 『母親は夫の家において、世話をし、家庭を守る者であり、家族に対して責任があります』(ブハーリー、ムスリム) 母親は、子供達すべてに同等に接しなければなりません。そして親が、子供達のうちの一人だけを愛情やプレゼントなどで、特別扱いしてはいけません。小さい子の頬にするキスでさえも、同等に公平にしなければなりません。預言者様(SAW)は、言われました。 『子供達に与えるものにおいて、公平さを保ちなさい。あなた達が、人々に公正に優しく、誠実にされることを好むのと同じように。』 年下を可愛がり、年上には礼儀正しくあること, 人間が平等で, 誰でも一緒に祈ったり, 座ったり, 食事をとったりすることが当然であります。男女平等はが今、世間で話題になっているのですが, イスラムは以前より平等を求め, それぞれの義務と権利を表しています。己にとって敵であっても正義に取り扱うことも大事なことです。 子供や大人, 特に女性の学校教育を大事にするような教えがありまして家族に自分の両親、配偶者の親戚を大事にする教えです。 イスラムの基本的な教えには、宗教に強制はいけないとありますが,残念な事にテロ活動をイスラムに繋げる考えが多くあります。イスラム教は固くテロ活動を禁止しています。人間を大事にする教えを忘れた人だけ、そういう残酷な態度をとっていると思えばいいのです。イスラムの名を名乗って反イスラム教活動だと思えばよいでしょう。そういう活動をしている人はイスラム、そして真のムスリムではありません。本当のイスラムは暖かいものであり、かつ親切で、我々は姉妹・兄弟である。 アッラーに帰依し、人の目よりも神の目を畏れる。 これが真のムスリムである。 日本アハマディア・ムスリム協会 日本本部著、主任宣教師 ナディーム アニース アハマド  

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我々は、欧米がイスラム教に対する非常に深刻な不正義のことについて皆さんに注目したいです。聖クルアーンの教えや聖なる預言者ムハッマドの差し止め命令の引用を見てみればイスラムは平和のみの宗教であることがわかるのです。イスラムは人間のすべての側面をカバーし、イスラム教徒に、仲間同士との人間関係と共に神に関する関係に平和のメッセージを届くのです。我々は何の偏見や矛盾の恐れがなくてイスラム教以外の宗教がイスラム教に比べてわずかでも平和に強調しないことを確かに言えるのです。ほとんどの宗教の信者が同じような主張をするのですが、ここで我々は経典に書かれた差し止め命令が完全に支持した宗教の話しをしているのです。もしすべての宗教がイスラム教と同じぐらいの程度で人間関係に平和の役割を強調するなら、これは大歓迎されるべき表意であって、我々がこれを褒めなければならなくてこれに我々が人間の将来の希望を築くことができるのです。世界のそれぞれの宗教のリーダーシップに現在人間が必要とする平和のメッセージを持って出る主な役割があるのです。 残念ながらイスラム教徒が神の名において、平和の師表であった聖なる預言者の名においてテロ活動を推進して世界平和にとって脅威として表しているのです。欧米がイスラムがテロの宗教や人間性を否定する宗教として表すならこれにすべてのせいは欧米のではないのです。これはせめてイスラム教徒のあらゆる団体の神学者のせいもなるでしょう。人間が興味のあるすべての側面に宗教が優先していることを話題にすると同時にイスラムは国際的に認められた人権を強く否定する宗教だと。これこそがイスラムのイメージに傷つける証拠に十分であるのです。 他の宗教の経典が普遍に理想的平和を提供したかどうかにもかかわらず、我々はすべての宗教がそういう理想的な状態がないと矛盾の恐れがなくていえるのです。これは国際平和のために全世界の宗教指導者が手を組んで協調努力のために基礎を築くのです。我々が意見の違いを争うより宗教指導者がお互いに効果のある合意点を見出す推薦ができることのほうがよいのです。これは各宗教を結合因子になると我々が確実に思うのです。したがってこれは国籍、人種、肌色を超えて人類を一つにする役割を果たすでしょう。もし各宗教がこの役割を果たさなかったら、他の誰もこれを果たすことができないでしょう。なぜかというと、宗教だけが国籍、地理、人種に関する障害を取り除く能力があるのです。 国際リーダーシップにこの本格的なお願いすると共によい結果を希望して、この小さな論文を終わりにしましょう。平和のためのお願いは人間の存在の問題です。これを気楽にしないほうがよいでしょう。(Elementary Study of Islam)

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それぞれの時代にあらゆる宗教の信者は死後の世界の問題に動揺したのです。また無宗教の案があって死後の世界の可能性を強く否定するのです。死後の世界を信じる宗教が二つに分けることができるのです。 まず魂の転生を信じていて死んだ人の魂が新たに人間が動物の形で存在するのを信じている人々です。 また死後の世界があることを信じる人々です。無宗教の考え方はこのようなデスコッションの範囲以外のことです。イスラムの教義のことですが、イスラムは転生のあらゆる可能性を否定する宗教のうち一つです。しかし死後の世界の精神的や物質的な形を信じる人々は、また、さまざまな意見に分かれているのです。それぞれの宗教によって死後の世界についての理解は違うのです。だからそれぞれの宗教の信者の意見を調べたらどの宗教の信者の死後の世界についての信仰は矛盾の恐れがある信仰です。 イスラム教こそ各宗派によって、または神学者によって解釈が違う場合があるのです。死後の世界の一般の理解は物質的な理解であってこの世にいたような形です。天国と地獄のイメージは結果的に精神的なイメージより物質的なイメージに近いなのです。彼らのイメージによれば図りにくい広い公園があって川が流れていてきれいな木がいっぱいある穏やかな陰のある場所です。川に流れているのはミルクか蜂蜜でしょうと。果物がいっぱいあって庭園があると思もわれ、人は果物がほしい時は彼らの命令によって手に入るでしょうと。あらゆる鳥の肉があって好きなように肉を選択することができるでしょうと。彼らが思うのは聖者の男には洗練された美しい女性が友になるでしょう。また聖者の男に与えられる女性の数に制限がなくて男の容量によって決められるでしょうと。できるだけ多くの女性との付き合いが可能で付き合えた女性がみんな彼たちのものになるでしょうと。この場合は彼たちは何をするでしょうか。お互いにどのように付き合うでしょうか。彼女たちは子供を生むでしょうか、それともただの不毛な人生の楽しさを楽しむでしょうか。これらのすべての質問の答えはないです。これが「楽しさ」といえばただの肉感的なものではないでしょうか。仕事もない労働もない何もする事がない人生は完全とはいえない、この「完全な人生」に食べすぎ、飲みすぎの選択があってミルクと蜂蜜が流れている川のそばに酒が流れている川があるのが確かに怠け者の人生といえるはずです。消化不良や酔う恐れのない状況で、絹や錦の天国の枕によりかけていて永遠の至福に恵まれた人生を送っているでしょう。このような人生は何の至福があるでしょうか。 イスラムではもう一つの解釈は聖クルアーンに述べられた天国についての以上の素朴な意味を硬く否定する解釈です。この解釈では聖クルアーンのいくつかの節の引用によって以上述べた素朴な意味はただの隠喩的や想像的であって物質的ではないと証明したのです。実に聖クルアーンははっきりと死後の世界の人生は今までこの世に知られているすべての人生より違う人生であろうと述べているのです。人間の想像以上の世界であってあの世の事実がわずかの一瞥もできないことです。 عَلى أَنْ نُبَدِّلَ أَمْثالَكُمْ وَ نُنْشِئَكُمْ فِي ما لا تَعْلَمُونَ お前たちを換えるにお前たち同類を以てし、今お前たちが知らざるものにお前たちを改造する。(56章62節) これはこのことについて聖クルアーンの絶対的な声明です。最近アハマディア協会の設立者カディアーン出身のハズラト・ミルザ・グラーム・アハマドは自分の珍しくて貴重な著書「イスラムの教えの哲学」(6)に死後の世界が物質的ではなく精神的存在だと述べているのです。この著書に述べられたすべての解釈は聖クルアーンや聖なる預言者ムハッマドの言葉に基づいた解釈です。この著書より少しは以下に引用されているのです。 この方の深遠な研究によると死後の世界は物質的な世界ではなくて精神的なもので、我々がその中のわずかの局面を想像することができるのです。あの世のものはどういう風に形とるだろうか簡単に説明することができないです。この方の死後の世界についての感想の特徴は魂に関する特徴です。つまり魂はもう一つの稀の実体の魂を生むことです。その新しい魂は関係としてこの世に我々の肉体的に以前の魂と同様に存在するのです。この魂から生まれた魂は我々がこの世に過ごした人生に関係がするでしょう。もし我々はこの世に我が人生を神様に服従した人生として過ごしたり、神の教え通りに過ごしたりしたとすれば、我々の味覚がなんとなく物質的な人生を味わうことと同じように精神的に味わうになるのです。魂の中に胚の魂みたいなもう一つの魂が形をとり始めるのです。新しい才能が生まれ、今まで物質的に味わっていた人生と違って新しい人生を味わうようになるのです。このような洗練された人間は自分の心の満足を見つけることができるのです。他の人の権利を奪うより自分が犠牲になったほうが楽しいです。仇を討ったりわがままではない恵子を愛したりするのが第二の天性になるのです。これはすべての本音と建前の関係を取り外すのです。だからもう一つの魂が生まれるのがそのうち明白になるといえるでしょう。 魂の状態の成長のすべての投影についての引用は聖クルアーンのいくつかの節から取ったものです。しかし魂の将来の資質はまだ完全に説明しかねるのです。我々はこのようなものであることを想像はできるが、これより詳しいことが理解できるのが人間にとって不可能です。また復活して新しい人生の特徴も話し合うべきです。イスラム教の地獄や天国についてのイメージは一般のイメージとまったく違うのです。地獄や天国は二つの別々のところではなく、これは違う時間や空間でもないのです。聖クルアーンによると天国は宇宙全体をカバーしているのです。聖なる預言者にある弟子が問うた「そうすると地獄はどこに存在しているでしょうか。」聖なる預言者は「同じ場所にある、しかし汝らは同時に両方の存在の理解する感覚がない。」と答えたのです。一般の言葉で言えば両方が同じ時間や空間に存在するといえるでしょう、しかし本当に言えば両方が違う次元にあるからお互いに邪魔せずに同じ場所に存在するのです。 そうすると天国の至福や地獄の火の拷問どういういみになるのか。約束されたメシア(彼にアッラーの祝福があるように)はこれについて次のように答えてくれたのです。もし健康状態のよい人がのどが渇いてもう死ぬぐらいの状態にいたとすれば彼にとって普通の水や自分が一番好きな飲み物を飲む喜びの経験、今までのない本当に何とか言えない喜びがあるでしょう。もしある人がのどが渇いていておなかもついていてすぐに何かのエネルギー源を要求していれば、彼に冷たいブドウ一房を与えられたら普通の情況で今までなかった満足の経験があるでしょう。しかし、この喜びの前提条件はよい健康です。なお、ある重い病人の事を想像してみなさい。吐き気を催し、持っている水分全部吐きたい人に脱水で死ぬほどの状態にいるとき冷たい水一杯や冷たいブドウ一房をやってみなさい。そのブドウをいただくどころか。彼がそれを一目見るだけも彼が嫌がる気持ちになるでしょう。 このような引用には約束されたメシア(彼にアッラーの祝福あるように)は地獄や天国が比較的なものだと説明しているのです。よいものを味わった健康な魂は自分の好きなものに近づいて来れば前よりもっと味わうようになるのです。それと同じように精神的な健康な人は自分が神に近づいてくると神の美徳や神徳に見習うようになるのです。天国にはそのような健康な魂は今までの経験になかった神様の美徳の魅力を見たり、理解したり感じたりし始めるのです。約束されたメシアによるとこの魂はただの精神的な美徳を持っているものではなく、軽快的な形をもって要るものになるのです。これは生まれたばかりの天の魂であって以前の魂の協力で一体で楽しむでしょう。これはまた比較的問題です。逆に、不健康な魂は生まれたばかりの魂にとって死後の世界に不健康な身体を作り、不健康な魂は地獄の魂になるでしょう。健康な魂を楽しむ理由はこの場合不健康な魂に拷問とひどい苦悩を与えるようになるでしょう。 我々は魂と我々の物質的な身体を比較するとき両方の想像に非常に理解しにくい大きな違いがあるのがわかるのです。身体のそれぞれの部分が生きていてずきずきしているのです。この生きている部分というのは物質的に生きているだけではなく精神的にも承知するのです。身体のそれぞれの粒子が神様に何とかの承知で恵まれているのです。科学者はその承知を電信脈として表すのです。しかしこれは我々が十分理解できない人間の身体の意識と無意識、免疫システムや独立したシステムが全体的承知を表すための非常に粗末的な仕方を持った説明です。 その承知は何でしょうか。これはどういう風に定義し、どういう風に表せるでしょうか。すべての生物にある「我が」はどうやって説明できるでしょうか。心理学的の用語で「自我」として表せるでしょうか。しかし「自我」ということこそがまだ心理学者によって定義されていないのです。これは宗教の用語で「魂」として述べられたのです。魂と物質的な身体の間の距離を測り方法はないのです。希少の用語で言えば、私たちの生々しい感覚では、魂は珍しくて超洗練されたものであるからその魂が占めている身体に接触するはずはないのです。また魂の中の魂が生まれるのは理解するためには何十億年の間のシナリオを思いつかなければならないのです。結局最後に魂の中に魂が見つかるのです。このように希少の用語で比較すれば、魂の中に魂は、人間の魂が人間の身体に接触すると同じようなものです。これに似たようなものが生まれてくるでしょう。相対的用語で言えば将来の人生は二つの状況を組み合わせた一つの実体を持っているのです。相対状態に言えば一つの状況は、身体のようなものと思えばもう一つの状況が魂のようなものです。我々の身体の比較で言えば我々の魂が新たな身体のように存在の本質に進化するのです。 もっと詳しく知りたいなら、読者はこの著書「イスラムの教えの哲学」を全部読んだほうがよいでしょう。このテーマは全世界の人々を動揺するのです。この著書はただこのテーマを扱うだけではなく、他の面白いテーマについても議論するのです。 簡単に言えば個人誰でも自分の地獄や天国を作るのです。見たところでは同じ空間と時間にいても、別世界の次元が違うので、個人の状態によってある人の天国は他の人の天国と違うのです。またある人の地獄は他の人の地獄と違うのです。 人の魂は彼の身体の死から審判の日に復活する間にどうなるでしょうか。我々の死後には、お墓に窓が開かれるでしょうと聖なる預言者は語ったことがわかるのです。聖者のために窓は天国から開かれ罪人のためには窓がじごくへ開かれるといわれたのです。しかしもし我々が実にお墓を掘ってみれば、我々はその中に何の窓も見ることはできないのです。だから聖なる預言者の言葉を文字通りにとったらこの言葉の本当の意味が伝えられないでしょう。まさか聖なる預言者が我々を誤報したということは絶対ありえないことです。だから聖なる預言者ムハッマドは比喩的に話したとわかるのです。もしそうでなければ我々は死体を埋葬した後いつでも墓を掘って地獄への窓か、天国の香りと心地よい空気があるかどうかを知るために窓を探すべきだったかもしれないのです。しかし我々はこのようなものを目撃するのが不可能なのです。したがって聖なる預言者の言葉はどういう意味になるでしょうか。 実にお墓はこの世とあの世の間の存在の中間相になるのです。お墓には精神的人生は段々進歩して結局最後の状態につき、アッラーの命令によって喇叭が吹き鳴らされる最終的な段階につくでしょう。この中間期に完全になる最終的段階に着く前にあらゆる魂は天国や地獄にふさわしい状況に入り、完全的に変換されたものへ引き上げるためにふさわしいでしょう。聖クルアーンはこの概念をうまく説明するのです。 ما خَلْقُكُمْ وَ لا بَعْثُكُمْ إِلاَّ كَنَفْسٍ واحِدَةٍ お前たちに創造と復活は、一個の魂の創造と復活に相似たり。(31:29) 単細胞から子供が生まれるのを熟考する人はクルアーンの以下の声明がわかるのです。 هُوَ الَّذِي يُصَوِّرُكُمْ فِي الأَرْحامِ كَيْفَ يَشاءُ 彼こそは御心のままに、お前たちを胎内に形造りたる御方なり。(3:7) なお、このテーマはまた以上述べられた二つの創造の相似に関するのです。たとえとして生まれつきに病を持っている子供たちの例を見てみましょう。この子供たちは出産のときに急に病をもつようになるではなく、彼たちが胚形成期で始まって段々病的な状態に入るのです。同じように精神的に病をもっている人の魂は審判の日に復活するまえに胚の段階にいて審判の日の最終的復活に地獄にふさわしい状態を通って苦しむのです。その間にお墓にお母さんの子宮に病を持った子みたいにいらいらになっていて、元気のある子の様子とまったく違うのです。子宮に元気のある子の足蹴でもお母さんを喜ばせるのです。 そうすると今もう一つの疑問が浮かんでくるのです。つまりお母さんの子宮に子供が段々大きくなると同じく魂も成長するのでしょうか。また魂はこのすべての段階を取り掛からなければならないでしょうか。この質問の答えは聖クルアーンの以上の節に存在しているのです。 つまり ما خَلْقُكُمْ وَ لا بَعْثُكُمْ إِلاَّ كَنَفْسٍ واحِدَة […]

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